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あいつが今日もいた、いつも道脇の側溝に両手をつき、顔だけを側溝の中に沈めているので、顔は一度も見たことがない。その日は大雨で側溝の水もあふれかえっていたのだが、今日も沈めていた。
「あれって昨日の」
気味悪そうに僕の彼女は言った。
「よくもまぁ毎日熱心なもんだよ、あれで通報されないんだから世も末だな」
少し小馬鹿にして強がってはみたものの、異様なその光景は誰がどう見ても不審者だ。
僕自身も横を通るのは少しばかり気が引けていて、それが彼女にも伝わったのか、僕の袖をあいつとは反対方向に引っ張り出した。
「ねぇ」
「わかってる、君はそこで待ってなよ」
僕は彼女に傘を渡すと小走りで、側溝に近づいて行った、僕は彼女にいいところを見せたかったのだ、しかしすぐさま後悔した。近くで見るとその異様性はますます強くなり、何日も変えていないであろう、薄汚れて所々破れたシャツに、原型をとどめていないジーンズを履いていた。
「がぼがぼがぼがぼがぼがぼ」
そして何よりこの音だ、側溝の水が排水溝に吸い込まれる音だと思っていたが、全てこの男から発せられている。
「あの~…すみません…」
僕は意を決して背中に触れた。
「がぼがぼがぼがぼ」
当然のことながら、男の顔は水に浸かっているので、声は聞こえるはずもない。それよりもこいつ一体いつまでこうしているつもりなんだ。僕と彼女がここにきてから、少なくとも四・五分はたったはずだ 。
「ねえ…もう帰ろうよ…」
僕はすっかりびしょぬれになっていた。彼女がいる方に振り向き、異音に負けぬよう大声で叫んだ。
「すぐ戻るから誰か呼んできてくれ」
一瞬彼女はためらいをみせたが、こくんと頷くとすぐさま反対方向に走り出した。
「がぼがぼがぼがぼが…」
「え?」
側溝に向き直ると、いつの間にか起き上がっていた、顔は……ふやけていて男か女かわからない、いやいやそんなことは今どうでもいいだろう、僕は見下ろされていた。
「がぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼ」
異音がまた始まった、しかもさっきよりはるかに大きく、脳を揺さぶってくる、それに耳が引き裂かれるほどに痛む、耳を塞いでも駄目だ。
「水に顔を…」
あまりにも低い声で、そいつがはじめて発した言葉、そうだ、側溝の水に顔を沈めれば少しは音が、とにかく痛い、痛い。
僕は側溝に顔を沈めた。
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