太宰治

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太宰治

 するとその時、お姉さんはばっとこちらを向いて、非常に驚いたように僕の顔をまじまじとのぞき込んだ。 「それって、太宰の……」 「えっ?」  とまどったように声を出して、たぶん今、太宰って言ったよな……。それって、太宰治? でもなぜ? などと固まっていると、お姉さんが、 「あはは、ごめんごめん、分かるわけないか」  と声高らかに笑い出した。僕はびっくりしたけれど、やけにお姉さんが楽しそうに笑うので、それはそれで良かったのかなと思い、わけも分からずに笑顔をつくってみせたりした。 「あのね……。『待つ』っていう作品があるのよ。太宰治の、とっても短い、掌編小説。さすがに太宰治は、知っているでしょ?」  お姉さんは、水を得た魚のように急にまくしたて始めて、僕は少々面食らってしまったけれど、なんだかお姉さんの顔色も良くなってきたようだし、会話を続けた方が良いと思い、 「も、もちろん、知ってます」  と応じた。本当は、何か知っている作品名でも挙げられたら良かったんだけど、万が一間違えたらと思うと、怖くて言えなかったんだ。それでお姉さんは仰向けの格好のまま、大きな濡れた瞳を夢見るように天井へと向けて、 「『待つ』っていう作品はね……ある女の人が、毎日ね、ある小さな駅のベンチにやってきて、腰をおろして、ただひたすらに、何かを待っているっていう、そういう小説なのよ」  そう言って、満足気にまた僕の方を見た。 「やっぱり、君も、何かを待っているの?」  そう聞かれた瞬間、僕の心臓は爆発してしまって粉々になり、動脈も静脈も、肺循環も体循環もどこかへ消え失せてしまい、脳は停止して、思考は空っぽになった。僕は、一番大事な核心を、お姉さんに射抜かれてしまったのだった。  ーー何かを、待っている。
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