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床の鞄に伸ばしかけた手が止まった。「りんさん」って何? 化学の授業で習った「リン酸」? まさか、テストでもないのに由香が化学のことなんかを話題に出すわけがない。
「りんさん?」
そう聞き返したあたしの顔を、由香はまじまじと見ると、
「えっ、ひょっとして」
レールがきしむ音がして、電車が止まった。由香は、何かとんでもないことを知ってしまったような顔であたしを見た。ちょうどドアが開いたので、とりあえず電車を降り、ホーム中央のベンチに向かう。そこで、それぞれの乗りかえ電車を待つのだ。
ベンチに座るなり、由香は、「裕子、ほんと、まじで、知らないの?」と念を押した。その様子から、あたしが「りんさん」を知らないことについて面白がっているというより、どうやら本気で驚いているようだった。
由香の話によると、「りん」というのは、女の人の名前で、「りん」に敬称の「さん」がついて「りんさん」らしい。光峰駅の本屋さんやカフェに出没することが多い。年のころは、中年とまではいかないが、少女というほど若くもない。つまり、いくつくらいなのか見当がつかない。何歳だといわれても納得するだろう。ロングの黒髪をたいてい後ろで束ねていて、服装は地味だが、センスは悪くない。誰が言いだしたのかは不明だが、「りんさん」と呼ばれているらしい。
そこまで話すと、由香はちょっとじらすかのようにペットボトルの水を一口飲んだ。その時点では、どうせよくある都市伝説の「何とか女」みたいなオチだろうとたかをくくっていた。平凡な女の人が実は怪物だとか殺人鬼だとか、その手の話にちがいない。
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