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そのときどこかで、「りんさん」と聞こえた気がして、はっとして、室内を見まわしたが、誰の声なのかわからない。由香のことばがよみがえる。町田さんだって、知ってるよ、絶対。  もう一度、町田さんを横目で見る。あいかわらず作業机の一点を見つめたままだ。視線の先を追ってみると、おそらく彫刻刀でいたずらで掘られたのであろうくぼみが見えた。というか、くぼみしかなかった。机のくぼみの何がそれほど彼女の興味をひいているのかわからない。本当に、彼女は「りんさん」を知っているのだろうか。由香に言わせれば知らない人はいないみたいな口ぶりだったので、いちどネットで検索してみたことがあるが、何もヒットしなかった。ということは、人づてに伝わっているうわさなのだろう。誰とも口をきかない町田さんが、そんなうわさを知っているとは思えない。  しばらくためらったあと、思いきって町田さんに声をかけてみた。町田さんは、ひと呼吸おいてから顔をあげて、ゆっくり首を曲げてあたしを見た。生まれて初めて他人から話しかけられたみたいな顔をしていた。 「りんさんって、知ってる?」  町田さんは、すぐに「うん」とうなづくと、「知ってる」とつけくわえた。その間、その瞳はガラス細工のようにまったく動かなかった。ちょうどそのとき、先生が来た。  その日の授業は自画像だった。筆を動かしながら意識は関係ないところでぐるぐる回っていた。町田さんの返事は、わかりきったことを質問をされたときのトーンだった。今日って木曜日だよね?とかの類の。「りんさん」のことをいったい誰から聞いたのだろう。友達はいないけど、兄妹から聞いたとか。誰かが「りんさん」の話をしているときにたまたま近くにいたってことも考えられる。ひょっとして、本当は知らないけど、知ってるって答えただけかもしれない。なぜ?人と話すのがあまり得意でないので、会話を早く打ち切りたいがために。でも、それって変じゃない?会話を打ち切りたいんだったら、知らないって答えるような気がする。
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