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「飯は、いつもの量でいいか?」
「はいッ!」
(割烹着じゃないけど、先輩の作務衣姿もいいよなぁ。合わせ目に手ぇ突っ込んで、まさぐりたい)
襟元からのぞく鎖骨を見ながら、成留は茶碗を受け取った。
「はぁ。やっぱ、先輩のメシ最高です」
「褒めても、酒は出さねぇぞ」
そう言いながら、奏はグラスを上げて常連客に軽く乾杯のポーズを取った。上機嫌の客は、奏に一杯おごるのが通例となっている。なので客の気分が盛り上がっていると、したたかに酔った奏が二階に上がってくることもあった。そうなればいいなぁと、成留はけしからん妄想を広げた。
(酔っぱらった先輩、めちゃくちゃかわいいもんな)
「ママがくれねぇんなら、おっちゃんが呑ませてやるよ」
常連客が成留へ焼酎をつけてくれと言う。奏はうなずき、芋焼酎のいちばん安い銘柄をロックで成留の前に置いた。
「ちゃんと宮原さんに礼を言えよ」
「わかってますって。おっさん、ありがとな」
「おうっ。奏ちゃんも呑め呑め。今日はおっちゃん、懐があったけぇんだ」
パチンコで勝ったのだと自慢する宮原に、ほかの客も「おごってくださいよ」と冗談交じりに声をかける。宮原は店ができた当初からの常連で、なぜか奏を“ちゃん”づけで呼ぶ。どう見ても「奏ちゃん」と呼ぶような、かわいらしい容姿ではないのだが、宮原が言うとしっくりきた。
(俺も先輩のこと、下の名前で呼びたいなぁ)
名前どころか、名字ですら呼んだことがない。きっかけを探しているのに、なかなか見つからない。恋人なんだし名前を呼んでもいいだろうと思いつつ、呼び慣れた「先輩」と言ってしまう自分が悲しい。
(奏、って俺が呼んで、おうっ、て先輩が答えてくれて、その頬がちょっと赤くなってたりしたら最高だよなぁ)
想像に浸ってニコニコする成留に、別の客が猪口を差し出し日本酒をそそぐ。それも飲みつつ、成留はほろ酔いのいい心地で働く奏をながめながら、妄想を加速させていった。
そんな成留を、奏は客の相手をしながら横目で見守る。
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