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ふと、どうにか耳に飛びこんだ仁羽の声が、和らいだ気がした。下、から。聞こえる? 自分の呼吸、それから心臓の音以外に、何が。聞こえるって、言うんだろう。思う、けど。
「待ってるって言ってたけど、そろそろ飽きてきたんじゃねえの?」
顔が浮かぶ。「待ってるから」と言った人。笑顔。ぴんく色のうさぎ。「待ってるから」ポケットの中のあみぐるみ。思い出す。そうだ、待っててくれるから。慌てて追いかけなくていい。前みたいに急がないで、ゆっくり下りてもいいんだ。
耳を澄ました。心臓の音は響いてるけど、音はきっと届く。耳を澄ます。お囃子は聞こえない。心臓の音がする。それにまぎれるみたいに、声が聞こえる。間違いのない声がする。
「そーのーだー、よーしーとーっ! にーわっ、たつきーっ!」
「園田義人ー、仁羽達樹ー」
間延びしたような声は確かに俺の名前を呼んでいる。あそこに行かなくちゃ、と思ったら案外簡単に、窓枠から下りられた。枝の上に立つと少ししなったけど、問題なさそうだ。
頭上にある枝に手をかけて、足を踏み出す。慎重に、一歩ずつ。進みながら、真ん中くらいで立ち止まった。幹までは、もう少し。注意深く後ろを見たら、仁羽と目が合った。
「……待ってるよ」
下で待っていてくれる二人と同じ言葉を、仁羽に向けた。俺の後ろにいてくれた仁羽に。ポケットの中のうさぎとか、笑顔を思い出しながら言った。
仁羽は小さく手をあげて、おう、と答えた。気をつけろよ、なんて言う。
「お前はそそっかしいから、注意しすぎるくらいが丁度いいんだよ」
「……あー、うん。そうかも……」
再び前を向くと暗がりが迫っていた。そこにあるのは幹と枝と葉っぱのはずだ。暗闇に見えるだけでそこにはちゃんと、木があるはず。思うけど、また振り返って仁羽を見た。今度は呆れたような顔をして、さっさと行け、みたいな顔をしている。
……うん、ここで戻るのは自殺行為だ。下からはずっと、二人の声が聞こえている。名前を呼んで、くれている。その一つ一つを噛み締めながら、俺はそろりそろりと前へ進む。
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