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深呼吸を繰り返して暗がりの中へ入り、幹まで到着。思わず抱きつく格好になって、幹の表面がぱらぱら剥がれた。
顔やら腕やらに、葉っぱだか枝が刺さってちくちくする。ふんわりと木の匂いがかすった。
風はない。遠くで虫が鳴いている。下にあるのは果てしない暗闇で吸い込まれそうなことも変わりはない。地面が遠くてここが高いことも同じだ。
酸素が薄い気がする。自分の呼吸の音がやたら大きく聞こえる。心臓が強く鳴っている。
だけど、思ってたよりも俺はしっかり立っている。
緊張はしてる。でも、パニックになったり座り込んだりはしてない。俺はちゃんと立っている。
抱きついていた体を起こして、幹の表面に添えていた手に、力を込めた。
下へ行くんだ。だって、俺を待ってくれてる人がいる。あとからはきっと仁羽がやって来る。ポケットの中のうさぎ。透き通った笑顔。つかんでいてくれる手。そういうものを知っているから、平気だと思った。
目線の高さの枝を持ったまま、重心を下ろしていく。幹に手をかけつつ、下の枝に着地する。
どっどっ、心臓の音が耳にこだまする。まぎれるように聞こえるのは、枝の軋む音、葉っぱのこすれる音。かすかな虫の音、甲高い笛みたいな音。
風が入らない木の中にいるからなのか、汗がじんわり広がっていく。背中や首すじに伝わる汗が気持ち悪い。
短く息を吸う。幹に手を添えて、足に力をこめる。上の方で葉っぱが動いている。
大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫なんだ。頭の中で何度も唱える。汗で濡れたてのひらを、ズボンでぬぐった。ついでに袖で顔も拭いたけど、あんまり効果はなかった。
次の枝をつかんで、呼吸をととのえた。あの日のことが頭をかすめる。すぐに忘れてしまいそうな記憶なのに、全部覚えている。
こんな夜じゃなかった。太陽が頭上にあって、辺りに光が散っていて、だけど木の中は少しだけ暗かった。瞼の裏に光の残像がちらついて、変な気分だった。
目を凝らしながら足を下ろす。段々目が慣れてきているのか、それとも昔の記憶のおかげか、足を置くべき枝が何となくわかる。
早く抜け出したい。呼吸が荒い。苦しい。きちんと足をかけたつもりが、滑る。つかんだ枝でどうにか体勢をととのえながら、息を吐く。汗が垂れる。
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