第5章 : call your name

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 短い呼吸音が耳障りだ。汗を拭うけどあんまり意味がない。張り付いたシャツが気持ち悪い。心臓の音ががんがんしていて、長い時間ここにいるみたいだ。  下りているのか登っているのか何だかわからなくなってきて、ふと上を見た。その時、ざわっと木が揺れた。ざざざっ、と体を揺らした木がうなる。ひどい耳鳴りのように、全ての音が塗りつぶされる。  眩暈だと思った。だけどすぐに、風の所為だと悟って慌てて枝をつかみ直そうとしたけど上手く行かない。  持っていたはずの枝が指から離れて体が前に傾ぐ。ちゃんと踏ん張れなくて、膝から力が抜けた。  落ちる、と思った。本能的にぎゅっと目を閉じる。  胸を打って一瞬呼吸が奪われる。肩や脚をぶつけた。むき出しの腕に枝が刺さる。だけど、思ったような衝撃はやって来なかった。ずっと前に感じたような、全身を叩きつけられる痛みはない。  恐る恐る目を開くと、運よく前に傾いたおかげで、枝に座り込んで太い幹に抱きつく格好になっていた。ぎしぎし、体重で枝が揺れる。 「……っはあ」  危ないな、もう少し気をつけないと。誰も見てないのに、苦笑いを浮かべてしまう。心臓がまだ鳴っていて頭に響いているけど無視して立ち上がる。下に行かなくちゃ、と視線をやってぞくり、と背筋が粟立った。  あれ、俺はどの枝に足を置けばいいんだっけ? どうやってここから下に行けばいいんだ?  下を見ると真っ暗な穴がぽっかりと口を開けているみたいだ。落ちてくるのを待ち構えている。その上に巡らされた枝のどれを選べばいいのか、どう進めばいいのか、さっきまでわかっていたはずなのに。  どういうわけか唐突に、思考回路はショートしてしまったらしい。一体どの道が安全で、どう行けば無事落ちないで辿り着けるのか。  すうっと、腹の底が冷たくなるのがわかった。視界が急に狭くなった気がする。  駄目だ、と思った。どうしよう、どうしたらいいんだっけ。次は何をしたらいいんだ。体がまるで動かない。筋肉が強張ってしまって、動くことを拒否している。  下を見つめたままで、真っ暗な穴を見ているしか出来ない。首一つ動かせなかった。頭と体は俺の意識を離れたのか、めまぐるしくさかのぼる。  頼んでなんかいないのに、こんな風に木の上で立ちすくんでいたあの日のことを再生する。暗闇を見ているしか出来ない俺の目に。
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