先き立つ者

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 古新聞をまとめるビニール紐を切ろうとして、鋏がないことに気がついた。  藤原俊幸は重い腰を上げて、廊下へと出る。ただでさえ狭いそこにはゴミが散乱していて、足の踏み場もない。  つま先で物を押しやりながら、俊幸は寝室へと向かった。この部屋も廊下と同様にゴミで溢れている。唯一の安らぎは畳に直に敷いた布団の上だけだ。だがその布団でさえ布地が破れ、中に詰まった綿がぼろぼろとこぼれ落ちている有様である。  まるでこの俺のようじゃないか。  俊幸はすっかり癖になってしまった悲しい笑みを浮かべた。 「そうだ、鋏を取りに来たんだ」  このアパートに越してきてからもうすぐ七年になる。いつしか独り言も癖になっていた。爺臭いと思うが、あと二十年もすれば立派に年寄りの仲間入りである。  布団を横切って、壁に沿って置かれた引き出しがついた棚の前へ立つ。ところどころ色あせた木製のそれは、年季の入ったこの部屋に妙に合っていた。  俊幸は一番右端の引き出しに手をかける――ここには鍵がついていて、それが気に入って購入したのだ――もう片方の手をスラックスのポケットに突っこみ、小さな鍵を取り出し、その引き出しを開ける。鋏はその中に入っていた。 「今日は紐を切るだけだ」  言霊に乗せて言い聞かせることで、俊幸は自分の中に渦巻く、ある衝動と闘うことができる。 「大丈夫、俺は大丈夫」  自分自身が納得するまで何度もその言葉を繰り返した。厚手のセーターに覆われた細い左手首には、何筋かの赤い線が刻まれていた。
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