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家の中から刃物の類が消えたのは、俊幸が引っ越してきて数日も経たない頃だ。
ある日死にたくなった俊幸は、台所の戸棚に収納してある包丁を手に取った。家から持ってきたその先端は刃こぼれしている。このまま刺したら痛そうだ。だが、そのくらいの苦しみを味わわなければ死ねないと思った。
俊幸は包丁を逆手に持ち、自らの腹部へと宛がう。刃先が厚手のセーターに飲みこまれていく。やはり刃こぼれしていては、ウールを切り裂くこともできないらしい。俊幸は一度包丁を床に置き、セーターを頭から脱ぐと、その辺に放った。
すべての準備が整い、あとは救いの向こう側へと飛び立つだけだ。しかし、再び包丁を握るその手は小刻みに震えていた。
「なんで……くそっ、止まれよ……」
逆手に持ち直し、さらにもう片方の手で支えると幾分楽になった。いま一度、欠けた刃先を腹部に宛がう。俊幸は目蓋を閉じ、安らぎの世界へ羽ばたくために心の中で懺悔した。
あの過ちは決して許されるものではない。あの子に一生の重荷を背負わせてしまった。この哀れな父を、どうか許してくれ。
俊幸は大きく深呼吸をし、両腕を引き寄せ、腹部を刺そうとした。
だが、死ねなかった。すんでのところでまたもや手が震え、狙いが逸れてしまったのだ。わずかについた傷はかすり傷程度のものだった。頭では理解している。死にたくても死ねないのだ。どうやら身体は脳が発する命令より、心の発する本心を優先するようだ。
俊幸は包丁を放り出し、そのまま畳張りの床へごろりと寝転ぶ。イグサの懐かしい匂いに、心に巣食っていたモヤモヤはすっかり取り除かれたらしい。
緊張の糸が切れたのか、自然と涙があふれてきた。俺はまだ生きている。死んでない。生きている……。
涙の正体が死にきれなかった絶望感からなのか、それとも生きている安堵感からなのか。その答えは俊幸本人にもわからなかった。
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