先き立つ者

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 大きなゴミ袋を両手に提げ、俊幸はアパートから歩いてすぐの所にある、ゴミ捨て場へと向かった。冬の朝はとくに空気が冷たい。鼻の奥まで凍えてしまいそうだ。  所定の位置にゴミ袋を置き、寒さでかじかんだ両手をこすり合わせていると、不意に背後から声をかけられた。 「俺のこと覚えているか?」  口元にマフラーを巻き、厚手のコートで全身を覆ったその男は、まだ年若に見えた。もしかしたら未成年なのかもしれない。 「この近所の人ですか? それとも学生さん?」  人とのコミュニケーションは、会社勤めの際に徹底的に仕こまれていた。だから初対面の相手だろうと決して嫌な顔はしない。だがその態度が男の機嫌を損ねてしまったらしい。 「ふざけてんのか」  苛立った様子の低い声が、俊幸の耳に刺さる。 「ふざけてなんか……」 「これでも、俺のことを思い出せないのかよ?」  そういうと男は口元のマフラーをずり下げ、覆われていた顔の下半分をさらした。露わになったその顔を見た瞬間、俊幸の脳裏に何かの記憶がよぎった。この顔を見たことがある。嫌な記憶だ。だがそれが何なのかが思い出せない。 「聞いてるのか?」  痺れを切らした様子の男は、足を一歩踏み出し、俊幸との距離を詰めた。正面に立たれると男の迫力に圧倒される。背丈は自分よりもやや高い程度だが、真正面から絡み合う鋭い眼に気力をそがれてしまう。  しかし見た目のわりに頬はこけ、目の下にはくっきりと隈が刻まれている。気温が低いせいか、よく見ると小刻みに震えていた。 「寒くはないのか?」  威圧感はあるものの、悪い男ではないだろうと俊幸は判断した。 「もしよければコーヒーでも飲んでいくか? すぐ裏なんだ」  この誘いに男は一瞬戸惑いを見せたが、下げたマフラーを元の位置に巻き直すと、「一杯だけ」と答えた。そのぶっきらぼうな態度が微笑ましくて、俊幸は思わず頬を緩めた。と同時に、なぜ男の顔に既視感があったのかが気になった。 「なあ、お前名前は?」  考える間もなく、口はそう言っていた。男は昏い目をぎょろっとさせて俊幸を見た。  それから小さく「柳」と答えた。
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