弐 濡れる朝顔の、儚さと… 【二】

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「……建、殿?」 何を言っているのだろう。建殿は。 それに、このように私の手など掴んでいる暇があるなら、落とした書状を早く拾わねば。 「どこにも……誰のところにも、行かないでくれ。ここに……私の、もと……」 「あの、建ど……」 「――しつれい、いたしますっ」 「……っ」 突然、割って入ってきた甲高い声。 他者の気配に、掴まれていた手首を勢いよく跳ね上げ、さらに相手の手を叩き落としてから後ろに飛び退いた。 声が聞こえた殿舎の端を慌てて振り返れば、肩までの長さで切り揃えた振り分け髪の少女が、そこに立っていた。見たところ、十歳ほどの女童(めのわらわ)だ。 「ん? どうしたのかな?」 濃色(こきいろ)の袴を長く引いている汗衫(かざみ)姿が愛らしい少女が、緊張した面持ちでこちらをじっと見ている。 それがどうにも気になって、できるだけ優しく声をかけながら近寄ってみることにした。 愛想のない自分が、(いとけな)い少女を怖がらせて泣かせてしまわないよう、撫子の君の幼少時を思い浮かべて微笑んでみせることまでして。 「誰に、御用かな?」 「ふっ、ふじわらのみつなりさまへのおふみを! おとどけにあがりました!」 「私に?」 誰からだろう? それにしても、たどたどしいながらも一生懸命に口上を述べた女童は、頬を朱く染めているさまが、ひどく愛らしい。 「なんだって? 光成に懸想文(けそうぶみ)だとぉ?」 背後でやかましい声が上がったことは無視して、女童が差し出す文を笑って受け取った。 *濃色(こきいろ)――濃い紫色、または濃い紅色のこと。
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