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え、いまなんて言った?
「俺いまフリーだし、泉くんだってフリーなんだし、そういう経験もある程度積んでたほうがいいと思うんだよね」
泉の顔に影が落ちる。今日までの人生であり得ないくらいに他人と近づいた距離。
ぎょっとして涼介の肩を両手で押す。
「や、八木さん? えっと、お気遣いはありがとうございます。心配してもらってすごく嬉しいです。でも、あの、大丈夫です!」
誰が誰になにを教えるって?
さすがに泉も今の状況が非常にマズイものだと気付いた。
「泉くん」
「は、はい」
「キス、してみない?」
「……キ……」
涼介の手が肩にあった泉の手を握った。
ひとと手を繋ぐ。それはもう小学校くらいでしか覚えがないような気がする。
指を絡めるように握られて、些細なふれあいなのに気が取られた瞬間。
「目つぶってね」
「……は?」
我に返ったけれどきつく手を握り締められて動揺で動けなくなる。さした影が濃くなって、目を見開く泉。反して目を閉じる涼介。
「ーー」
唇になにかが触れた。なにか。その答えは目の前にある。
1秒、2秒、3秒ーー。
永遠に思えたが、ほんの数秒。スッと涼介が離れた。
「これがキス」
初級のね、と涼介が初めて見る艶のある笑みを浮かべて囁く。
そしてキスより長く沈黙が落ちて、涼介が吹き出した。
「泉くん、息、して?」
ほら、と涼介の指先が泉の唇に触れてくる。その感触にようやく凍り付いていた泉は我に返った。
「っ、あ、あ、あ、あ」
キス、キス、キス。
頭の中でぐるぐる回る単語。たった数秒触れるだけだったがまぎれもないキスだ。
それもファーストキスーー。
「あ、あ、お邪魔しましたぁ!!!」
どうしよう! どうする? キス?
思考回路は壊れてまったく機能しない。
ただパニックになって泉は頭を下げるとドタバタと涼介の部屋を飛び出した。
エレベーターはあったが立ち止まることができず階段でおりていく。
ひどく長く感じる階段をおりて走って走って、転けた。
朝の道路。通学路なのか学生の姿も多い。派手に転けた泉は注目を浴びてうつむいて立ち上がった。
少しだけ意識が現実に戻されてトボトボと歩き始める。
しばらくして泉は足を止め、辺りを見渡した。
「……ここどこ」
泉の弱々しい呟きが見知らぬ街角に小さく響いた。
***
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