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第一章
日が沈みかける頃、彼女がその地区に入って十分は経っただろうか。
歩くだけで、物乞いに声を掛けられ、目の前をドブネズミが横切る。時折、動物の死骸も目に入る。
腐臭とも呼ぶべき悪臭が体全体にまとわりつき、胃の中を逆流させる。なれるまでには、相応の時間が必要だろう。
「ここ、ね」
嫋々とし、大量の湿気を帯びた風が肌を撫ぜる。
彼女――レイン・ウィルコックスの視線の先にあるのは、酷く傷んだ木造の家屋だった。何年も放置され、廃屋と称されてもおかしくない外観。人など住んでいるはずもない。
しかし、この地区においてそんな常識が適用されない事をレインは知っているし、躊躇している暇もない。戸惑うことなくその家へと歩みを進める。そして、ドアをノックした。
すると中から、
「入れ」
男の声が聞こえた。
(いるんだ……)
分かっていながらも、人の存在に驚き、思わず唾を飲み込む。中の人物はレインの目的の人物だろうか。レイン自身、その人物とこうも簡単に接触できるとは夢にも思わなかった。何度も足を運んだ結果、会えるのだろうと勝手に思っていた。だから、今日はこの地区の様子を見るついでに訪ねただけだった。
せっかくなら、と恐る恐るドアを開き、中へと足を踏み入れる。
中は仄暗かった。窓から微量の日の明かりが差し込むものの、部屋全体を明るくするまでには至らない。目がこの暗さに順応するのを待っていると、
「用件は何だ?」
急かすように家主らしき人物は尋ねてきた。
五秒ほど黙殺した後、目が暗さに慣れ始め、浮かび上がってきたその人物の輪郭を見つめながらレインは言った。
「――人を殺してほしいんです」
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