玖《く》

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玖《く》

 それから数日もせず、鳩の御神使と狐の御神使が揃って再び柳屋を襲撃、もとい訪問があった。今度はきちんと玄関からの来訪だ。彼らによると、倉稲魂命様は完全に回復し、四月の初めには雨を降らせると張り切っている、とのこと。汗と涙と鼻水まみれで狂喜乱舞した小さいおっさんと、彼を拳で黙らせる鬼の形相の少女は、もはや立派な様式美だ。  どうやら、無事に春が来るらしい。  強面の陣郎が分かりにくく愁眉(しゅうび)を開き、空になったお重を受け取った絢緒は、春が楽しみですね、と、四季の移ろいか、はたまた旬の食材についてか、そんな感想を述べていた。  御神使達の訪問から二日後。千切った雲が(いく)つか浮かぶ、穏やかに晴れた午後だった。  完全防寒の上、コートと闇色の羽織に包まれた神奈は、冬枯れの土手に腰を下ろしていた。顔に吹き付ける川風は相変わらず冷たい。見るともなく見ているのは、目の前のグラウンドだ。赤苑高校サッカー部に飛び入り参加した陣郎が、一緒にボールを追い駆けている。きちんと教わったらしく、ドリブルどころかヘディングもパスもできるようになり、前回より動きが滑らかだ。 「黒丸さんからの伝言です。小坂威吹さんの報告は無事承った、とのことです」  今朝、獄卒から連絡があったと、隣に立つ絢緒が報告する。ああ、とも、そう、とも付かず、神奈は気のない返事だ。  これから、小坂威吹の地獄での裁判が始まるのだ。 「小坂威吹さんに、全部は伝えなかったのですね」  ややあって、絢緒が口を開いた。  威吹が想いを寄せていた周東未散と、その親友である瀬川凪沙のことに他ならなかった。 「知らぬが仏、っていうだろう。通り魔に殺された上、死んでも想い人を守ろうとしていた死者に、わざわざ追い討ちをかけることもないさ」  助手の顔も見ず、神奈は気怠(けだる)そうに続ける。 「本当のことを知って失望も後悔もできるのは、立ち直る時間や挽回の機会があるからだ。死んだら、そんなものはないんだよ」  嘘を暴き、明るみに出た真実が、幸福や救済を(もたら)すとは限らない。最悪の事実を知った時、奈落の底に叩き付けられても立ち上がれるのは、生きているからだ。生き続けようと、這い上がろうと、一心不乱に(もが)いて足掻く。しかし、突然殺された小坂威吹は、そんな時間さえ奪われた。これ以上、絶望させるのは非道だろう。  死者の未練解決と、それに伴う真実の告知。成仏屋が匙加減を誤れば、死者の心は満たされることなく、この世を彷徨(さまよ)い続けることになる。最悪の場合、生者に害を成すものに成り下がってしまいかねない。 「とにかく、威吹君が無事、あの世に逝けて何よりさ」 「その(わり)には、(もの)()げなお顔をしています」 「そうかな」  自覚のない神奈は、ぺたり、と己の掌を頬に押し当てる。当然、分かるはずもない。  新田幸助への呪いが成就しないことは、既に威吹自身に伝えた。それにあの後、匿名の通報により、威吹を刺した浜上順太は、高草木稲荷で拘束されているところを発見され、後に捕まったと、地方紙には小さくあった。冷やかし連中は逃げたらしい。今も浜上一人が、取り調べを受けている。  神奈には、これと言って懸念材料が思い当たらない。はずだ。 「周東未散さんと瀬川凪沙さんのことが原因でしょう」  絢緒が穏やかに断ずる。 「特に周東さんは、己の心配はしても、小坂威吹さんを一顧(いっこ)だにしませんでした。これからも、することはありません。堕ちていくだけです」  だから落ち込むことはない、と彼は言外(げんがい)(にじ)ませる。それに、と続けた声音は、神奈を憐れんでいるようでもあった。 「呪いは、当事者だけでなく、関わった人間の心も消耗(しょうもう)させます。そんな顔をなさるくらいなら、瀬川凪沙さんの絵馬の存在を明らかにしなくても良かったのです」  周東が呪われている事実を周東自身に教えたのは、他ならぬ神奈だ。それも、成仏だの拝み屋だの、それらしい単語で自己紹介し、札だらけの羽裏をそれとなく見せることで、自分を、引いては絵馬の呪いを信じさせたのだ。 「君が心配するほど、影響されていないつもりだよ。だけど、ボクがもっと上手く立ち回れなかったか、とは思っている」  気配に気付いて、神奈が首を巡らせると、隣で絢緒が膝を折って屈むところだった。視線を合わせようと、片膝を着く。 「私の性質はご存知のはずでしょう。それほど後悔するくらいなら、あの場は私が、如何(いか)ようにでもしましたのに」  物騒な台詞とは裏腹に、優しい声音は何とも魅惑的だった。薄い唇に綺麗な弓なりを描かせて、絢緒は冬の朝のような微笑みを浮かべている。しかし、細めた目の奥で、暗い赤色の瞳孔が鋭く輝いているのが見えた。  きっと、今頼んでも、この助手は、妖の本性のままに、喜んで実行するのだろう。事実、それを待っている雰囲気があった。 「柳の成仏屋が、自分で仕事を増やしてどうするのさ」  きな臭い空気を吹き飛ばすように、神奈はわざとらしいほどの大きな溜息を吐く。  これは彼なりの慰めなのだ。  人間に紛れる絢緒は、当然、人間の規律や倫理も理解して生きているのだが、時々妖としての本性を垣間見せる。何かあれば、彼にとっての得意な手段で力任せに解決しようとする。気持ちは嬉しいのだが、その結果が常識外れの過保護ならまだしも、人の生死まで関わって来るとあっては、こちらも全力で止めるしかない。  絢緒がそうなったのは、上司である神奈が彼からすれば赤子同然の子供だからだろう。  そして一番の理由は、先代の柳屋が死んだからだ。彼はもともと神奈の父の助手だった。 「それに君を助手にした時、ボクは約束しただろう。絢緒に人殺しはさせない、って」  でも、心配してくれて有り難う、と神奈は苦く笑う。  珍しくも真顔になった絢緒が、これまた珍しく黙ってしまった。そうかと思えば、突然顔を俯かせ、神奈から隠そうとするように右手で覆ってしまう。指の隙間から、決まりが悪そうな顔で、気恥ずかしそうに目を伏せているのが見えた。 「申し訳ありません、約束を反故(ほご)にするつもりはなかったのですが、しくじりました。先程言ったことは、どうか忘れて下さい」 「かなり過激な慰めだったね」 「あ、小坂のいとこさん!」  神奈が茶化すように笑っていると、グラウンドの端から元気の良い声が聞こえた。これ幸いとばかりに、絢緒は立ち上がる。それを追うことなく、神奈が声のした方に視線を向けると、新田幸助がこちらに向かって大きく手を振っていた。  陣郎ではなく、神奈のことらしい。威吹の従兄妹だと名乗った嘘は訂正していない。恐らく、その機会もないままだろう。  汗だくの新田はスポーツタオルを被ったまま、自慢の俊足で土手を駆け上がって来た。こんにちはっす! と彼は弾けんばかりの笑顔で絢緒にも頭を下げる。黒目勝ちな目で赤茶の髪を弾ませる様は、元気一杯の子犬を連想させた。 「黒滝さんって、凄いね! 走るの速いし、教えるとすぐできるようになって、しかも上手いんだよ! ゲームすると、めっちゃ楽しい!」 「それは良かった」  いまだ体育会系オーラに慣れない神奈に、新田は(まぶ)しすぎる。必死に目を瞬かせていると、隣で絢緒がくすくすと小さく笑い声を漏らしていた。 「あ! そうだ、いとこさん。前に話した周東さん、ノートは返せた?」  心配そうに尋ねる新田に、神奈はええ、と頷いた。 「無事に渡しましたよ。それが何か?」 「周東さん、事件のせいで、いきなり転校しちゃったでしょ? 誰も連絡先を知らなくて、先生達もバタバタしていたくらいだし。急だったみたいだから、いとこさんは間に合ったかな、って。……まあ、引っ越しは、無理もないんだけど」  まだ(おおやけ)になっていないのに、やはり人の口に戸は立てられない。ストーカー行為をしていた浜上順太が、周東未散の護衛をしていた小坂威吹を刺した、という話が赤苑高校を中心に広がっていた。彼の母親やサッカー部員達の心の内は、如何(いか)(ばか)りだろうか。  気に病んだ周東は欠席が続き、居づらくなったのか、一家で引っ越したらしい、と新田が教えてくれた。 「心機一転、新天地での活躍を願いましょう」  爽やかな笑顔で(のたま)う絢緒に、神奈はじっとりした視線で見やった。  得意になった周東が、浜上に神奈を襲わせた理由を披露していた時、じりじりと殺意に身を焦がしていたのは、この助手だ。近くにいた陣郎の引いた顔が忘れられない。 「しかも、転校したのは周東さんだけじゃなくて、同じ学年にもう一人いたんだって。偶然かな」  そう言えば! とそこで新田は、はっとして飛び上がる。  反応が忙しい上に激しいのは、このサッカー部の特徴なのだろうか。 「いとこさん、おれ、夢で小坂に会ったんだよ! 皆、お前を心配してたんだ! って滅茶苦茶怒ったら、悪かったって、駅でのことも謝ってくれて、今まで有り難うって、小坂のヤツ、頭、下げてた。夢なんて、おれの意識の問題だろうけど、何だか嬉しくって!」 「おさすが、御神使殿」  照れ臭そうに体育会系の謝罪をする威吹の姿が、神奈の目に浮かんだ。  神の眷属(けんぞく)なら、夢告げもお手の物だろう。死者を人の夢にお邪魔させるのも、そう難しくないらしい。  何ですか、ときょとんとする新田に、神奈は笑って誤魔化した。 「きっと、本当に威吹君が夢枕(ゆめまくら)に立ったんですよ。彼も、新田さんのことを気にしていたんでしょう。向こうへ旅立つ前に、挨拶に来たんです」 「だよね! おれ、占いとか良いことしか信じないんだ! 違うかも知れないけど、そう思っておくことにするよ!」  満面の笑顔の新田はぺこりと頭を下げて、グラウンドに戻って行く。それを見送った後、空を見上げた神奈はふと気付いた。 「絢緒。そろそろ、春が来るらしい」  窈窕(ようちょう)たる天女が二人、明るい空をふわりふわりと雅やかに舞いながら、柔らかな風に揺られて、ゆっくりと去っていくところだった。春霞(はるがすみ)のような薄衣(うすごろも)(たお)やかに(まと)った佐保姫の(さき)()ちだ。彼女達は花の笑みを(こぼ)して、春を迎える喜びを穏やかに現しては、北へ北へと向かって舞い踊る。(まばゆ)いばかりに美しい春の先触れだった。  長く苦しい冬を超えて、(ようや)く、春の女神様がお出ましになるらしい。高草木稲荷でも、御祭神が準備運動をしているかも知れない。  ふと、神奈の頭の中に、御神使達の顔が浮かんだ。  今度は仕事を抜きにして会いに行こうか。あれだけ稲荷寿司に喜んでいたのだ。絢緒を手伝って、桜餅や草餅を手土産にしたらどうだろう。  そんなことを思いつつ、神奈は春の兆しを見送った。
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