捌《はち》

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捌《はち》

 赤紫を滲ませた雲を余韻のように残し、太陽がすっかり沈んでしまうと、東から闇色がやって来た。春宵(しゅんしょう)のうすら寒さが肌を刺す。  賽銭箱の前に立った神奈は、(おもむろ)に空を見上げた。  月は見えない。  高草木稲荷の周りを囲うのは、背の高い常緑樹ばかりの鎮守の杜。電灯の燈籠が石畳を照らしてはいるものの、辺りには夜の気配が迫っていた。  昼に参った時には気付かなかったが、境内の隅に立つ銀杏が、ぬうっと固い幹を(さら)している。日中、太陽の光を吸収した葉が黒々と浮かび上がり、伸ばされた枝は枯れた骨のようだった。  人工の明かりが届かない影の中で、じっとこちらを(うかが)うもの達がいる。そばに控える恐ろしい番もあって、悪戯に明暗の境をなぞることはあっても、それ以上は近付いて来ない。こちらがやたらに手を出さなければ、何も害はないのだ。 「柳屋、暗くなって来ちゃったぞ。こんなところで、何をするつもりなんだ?」  近くの朱の鳥居のそばで、威吹がこちらを振り返った。彼は公園にいるところを、用件も聞かされないまま、連れて来られたのだ。 「良いかな、威吹君」  しかし、当然の質問には答えず、神奈は威吹をしっかりと見据えた。まるで子供を(いさ)めるように、丁寧に区切って言い聞かせる。  「さっき言った通り、何が起こっても、落ち着いて欲しい。じゃないと、怪我人が出る」 「わ、分かっているって」    被害に遭いかけた人間に指摘されて、威吹は気まずそうしながらも頷いた。  石畳の上を弾く固い足音を聞いて、神奈はそちらに視線を移す。それにつられた威吹が、驚いて後退った。朱を連ねた鳥居を(くぐ)って、こちらに歩いて来る人影がある。  神奈は愛想の良い顔を作り、どうも、と声をかける。 「今晩は。忙しい中、来てくれて有り難うございます、周東未散さん」  黒タイツに包まれた長い足が止まり、ダッフルコートから覗いたスカートの裾が小さく揺れる。現れたのは、周東未散だった。  見知った顔に気が緩んだのか、彼女は強張らせていた顔を(やわ)らげ、小さな安堵の笑みを浮かべる。朱の鳥居を照らす燈籠の明かりが、美しい少女を浮かび上がらせていた。 「ああ、小坂くんのいとこさん。ノート、見付かった?」 「ああぁあああ、ごめんな、周東! 本当に、ごめんな!」  両手を擦り合わせて必死に謝り倒す威吹の姿は、周東には当然、視えていない。なかなかシュールな光景だ。笑いそうになるのを咳払いで誤魔化し、勿論、と神奈は答えた。 「でも、返却の前にまず、あなたに謝ります、ごめんなさい。ノートを口実に、あなたを(おとり)にしました。(おび)き出すために」 「お、囮? 誘き出すって、何を?」  目を瞬かせる周東の周りには、隣の威吹と同じく、疑問符が浮かんでいそうだ。二人の無垢な反応に、神奈はにっこり笑って見せる。 「小坂威吹君を刺した犯人です。今も、あなたの後をつけて来ていますよ」 「え……?」  声を上げたのは威吹だったか、周東だったか。  神奈が鳥居の向こうに視線を投げれば、二人は勢い良く振り返った。人の気配に気付いた周東が、飛び上がらんばかりに驚き、怯えてこちらに向かって逃げて来る。  鳥居を(くぐ)って現れたのは、黒いジーンズとブルゾンの男だ。  元は綺麗に脱色していたらしい髪は、今や頭の上半分が地毛に戻り、黒と金が同じ比率になっている。ぐるぐる巻きにされた右手の包帯の白さが目立つ。猫背気味の細い体躯から怒りのオーラを撒き散らして、射殺さんばかりに神奈を睨み付けている。 「何で、お前が未散と一緒にいるんだよ、小坂威吹のいとこ……!」  男が唸るような声で吐き捨てた。鼻と頬の辺りを赤黒く腫らしているが、その顔を忘れるはずがない。 「こいつだ……!」  男を睨んだまま、威吹が怒りを滲ませた声で叫んだ。 「オレを殺したのは、この男だ!」  それを聞いた神奈は男を見やる。威吹の台詞に加えるなら、ファミレスの駐車場で自分を襲った男でもある、ということだ。 「あ、あなた、万引きの……!」  驚いた周東が、続く言葉を失ったまま後退(あとずさ)る。そんな彼女を視界に収めるや否や、男の表情は一変した。顔には明らかな喜色が広がり、まるで咽喉元を擽られる猫のように目を細めた。 「未散ぅ、覚えていてくれたのかぁ。そうだよぉ、オレはあの時、お前に万引きの冤罪から助けてもらったんだ。あの時のことは、一生忘れない。絶対に忘れるもんかぁ」  猫さえ逃げ出す猫撫で声に、周東が怖気(おぞけ)に身を(すく)ませている。そんな彼女の前に、殺気立った威吹が立ちはだかった。見えず、触れずは分かっていても、じっとしていられないらしい。  痛む(こめ)(かみ)に耐えつつ、神奈は司会者のように掌で示してみせた。 「ご紹介しましょう。彼は浜上(はまうえ)(じゅん)()さん。周東さんに万引きの冤罪から救われて以来、付き纏っていたストーカーです。ピアノ教室のそばにある、ライブハウスのバイト君ですね。そして小坂威吹君を刺し、凶器のナイフをこの縁切神社に持ち込んだ犯人です」 「こ、この人が、小坂くんを……?」  小さく息を飲んだ周東が、それ以上の言葉を押し込むように、口元を両手で押さえる。恐怖と怯えの色を滲ませた目が、今にも転がり落ちそうだ。 「おい、柳屋! どういうつもりだ!?」  痛ましそうに周東を見るなり、威吹が神奈に食ってかかる。 「あと、いとこって何!? アンタがオレの身内って初耳だけど!?」  素知らぬ顔の神奈は、片耳に指を突っ込んで聞こえないふりをした。 「何で驚くんだよぉ、未散ぅ」  蒼褪める彼女を前に、浜上は大きく体を傾げさせた。 「知っていただろぉ? 俺がずうぅっと見守っていた、って。あいつを殺したのだって、お前のためだろぉ」 「な、何を、言っているの……?」  困惑を露わにした周東に代わり、神奈が口を開くことにした。 「浜上さん。あなたが小坂威吹君を殺したことに、間違いはありませんか」 「さっきオレ、そう言ったじゃん!」 「だったら、何だ?」  先刻とは打って変わり、殺気の籠った声と表情で、浜上が肯定する。地団駄を踏む威吹はこの際、無視だ。 「あの夜、小坂の馬鹿は公園で未散と会って、浮かれていたからよ。その隙を突くのは、簡単だった」 「その理由を聞いても?」 「未散が望んだからだ。それ以外にねぇだろうが。お前も殺す! 絶対に殺す!」  この前は一人だから失敗した、と浜上は(うそぶ)くと、負傷していない方の手でスマホを振って見せ、器用に片頬を上げた。 「今って便利だよなぁ。掲示板にちょっと書き込めば、すぐに人が集まるんだから」 「何だ……?」  威吹が用心深く辺りを(うかが)う。鎮守の杜が騒がしい。  小路の他に、木々の間を複数の奇声が飛び交い、こちらに向かって来る。神奈が耳を澄ませる間もなく、ぞろぞろと男達が出て来た。浜上と同じような黒っぽい服装で、腹が突き出た奴や、毛幹が息絶えていそうな脱色した髪の男。モヒカン擬(もど)きや丸坊主といった奇抜なのもいる。ゴリゴリと石畳を削っているのは、彼らの手にした鉄パイプや金属バットだ。随分と物騒なシルバーアクセサリーである。 「あっれぇ、もう始めちゃってる感じぃ?」 「どぉーもぉ! お邪魔しちゃいまぁーす!」 「よっしゃ! 女の子もいるわぁ!」  境内に響く下品な笑い声。糸を引くような話し方が耳に絡み付く。彼らの品性がよろしくないことは明白だった。 「に、逃げろ、柳屋! 周東を連れて、早く逃げろ!」  血相を変えた威吹が必死に叫んだ。 「鳩の方、狐の方。人除けの結界を」  日が沈んだとはいえ、参拝者が来ないとも言い切れない。神奈は絵馬掛けの影に隠れていた御神使達に頼むと、震える周東の手を引いて、自分と賽銭箱の間に滑り込ませた。  代わりに、それまで静観していた助手達が進み出る。 「これはまた、随分と俗悪(ぞくあく)なお客様ですね」 「やっと出番か」  歓迎の挨拶として、絢緒が穏やかに微笑み、陣郎は尖った犬歯を見せる。  それが合図のように、突然、杜から人影が飛び出した。 「ッラァア!」  威勢の良い巻き舌で、男が陣郎の背後から細長い棒を振り下ろす。死角を突いて、奇襲を仕掛けたのだ。西瓜(すいか)割りの要領で、頭を勝ち割った。その手応えに、男が調子外れの高笑いを上げる。  が、その嘲笑はすぐに消えた。 「アアぁ? いの一番で斬り込んで来たくせに、それかよ」  呆れ顔で振り返った助手は、無傷だ。金瞳を凶悪なまでに光らせている。ぐふぐふと、ドブのような含み笑いを漏らしていた他の男達は、棒を呑んだように硬直した。  人相の凶悪さと桁外(けたはず)れに強靭な肉体、どちらに驚いたのか、と神奈は他人事だ。気配に聡い陣郎が、そう易々と背中を取られるはずがない。背中を見せたのはわざとだ。  陣郎は鉄パイプを取り上げると、両端を持って力を込める。冷えた飴細工のように真っ二つに折られた鉄の凶器が、あっさりと投げ捨てられた。馬鹿力どころではない。  喉を引き攣らせ驚愕に後退(あとじさ)る男の胸倉を、大きな手が掴んで引き寄せる。身長差で男の爪先が、下手糞なステップを踏んでいる。男の眼前に迫った金瞳は、恐怖以外の何物でもないだろう。 「加減も分からねぇ奴が、得物を振り回すんじゃねぇ」 「ひぃ、あ、わあああ!」  間抜けな絶叫が上がったかと思えば、男の体がひょい、とボールのように放り投げられた。巨大な剛速球のパスを、烏合(うごう)の衆は受け止めることも(かわ)すこともできず、巻き添えを食らって、(したた)かに体を打ち付けていた。  意に介すことなく、陣郎は同僚に呼びかける。 「おい。一発目を我慢すれば、後は何しても良いんだろ?」 「はい。確か人間の社会では、正当防衛のはずです。ただし、出血をさせてはいけません」  これ以上聖域を穢すな、と釘を刺すもう一人の助手は、正当防衛の意味を都合良く解釈している。 「私は何分、喧嘩が不得手(ふえて)ですから、手元が狂ってしまうかも知れません」 「嘘を吐くと、閻魔に舌を引っこ抜かれるんだぞ」  いけしゃあしゃあと(のたま)う絢緒に、陣郎が半眼になる。その間も、男二人が絢緒に幾度となくナイフを突き出すが、彼は綺麗に避けていた。しかも、紙一重で避けて(あお)り立てるという性格の悪さ。業を煮やした別の一人がジャンプ式警棒を取り出し、絢緒の背後へ突っ込んで行く。  男が警棒を振り被った瞬間、空気を切り裂く音がした。  絢緒の足が、警棒だけを蹴り飛ばしたのだ。唖然とする男の顔に腕を伸ばすと、絢緒はその額に向かって中指を弾く。いわゆるデコピンだ。  可愛らしいお仕置きに反して、聞こえたのは鈍い打撃音だった。  受けた男は声を上げる暇もなく、弾かれた勢いで後ろ頭から地面に沈んだ。気絶したらしく、動き出す気配はない。  己を奮い立たせるように怒声を上げ、二人の男が捨て鉢にナイフや金属バットを振り回し始める。卒なく(かわ)す絢緒は、男達の額に中指を打ち込んでは、次々に沈めていった。  勢い良く弾き飛ばされる坊主頭は、まるでパチンコ玉だ。  そんな助手二人の応戦に尻込みしていた男達は、転がるように逃げ出した。 彼らの間に義理や友情はなく、暴行目的でこの場に集まっただけにすぎないのだ。見事に期待が裏切られた結果、神奈の目の前は阿鼻叫喚(あびきょうかん)恐慌(きょうこう)状態だった。 「分かっていたけど、柳屋の助手さん達、強くね?」  つか、えげつなくね? と冷や汗を滲ませた威吹が口の端を引き攣らせている。神奈は無言で、そっと視線を逸らすしかない。  その先で、物陰から観戦している御神使達に気付いた。歓声に手を叩き、指笛まで吹いている。彼らの手に握られているのは、差し入れた稲荷寿司だ。見世物ではないのだが、と神奈は苦笑する。  ふと、助手達の様子を見ていた男の一人と、目が合った。浜上だ。  燈籠に照らし出される中、彼は神奈に気付くと、横一杯に口を押し広げて暗く笑った。照準を合わせたように据わった目が爛々と輝く目。くるり、と体の向きだけをこちらに変えた時、気付いた威吹が何事か叫び、周東が悲鳴を上げた。神奈は咄嗟に浜上の前に出ると、周東を背にして庇った。その後ろには賽銭箱であり、神社の拝殿だ。逃げ場がない。  浜上がナイフを取り出した浜上が何事か叫ぶ。走り出した浜上だったが、それ以上疾走することはできなかった。彼の体は、地上から一メートルも満たない高さで、宙吊りにされたのだ。 「ぐううぅ!」  浜上の首の後ろから食い込んでいるのは、長い五指。今にもへし折らんばかりに片手で掴み上げているのは、絢緒だ。 「生憎(あいにく)、喧嘩は不得手ですが、殺生(せっしょう)は好きな性分です」  微笑む助手の瞳が、縦に引き絞られている。ますます大きく喘ぐ浜上が、ナイフを取り落とした。目を大きく引き剥き、怪我にも構わず、両手で首を掻き毟る。海老(えび)のように体を反ったり丸めたりしては、終始両足をバタつかせていた。その分、体重と重力で首が絞まるだけで、土気色になった顔が、ますます歪んでいく。 「絢緒、駄目だ!」  神奈は声を張り上げた。 「それ以上はやめろ!」 「承知しています」  素直に了承した助手が、ぱっと手を広げる。途端、重力に従って、浜上は固い石畳に落とされた。両足は何とか着地できたものの、踏ん張れるはずもない。尻餅を着くと、背後から倒れ込む。背中を丸めて(うずくま)り、嘔吐する勢いで咳き込んでいる。息を吸うたびに、気管を通り抜ける濁った音が聞こえた。  安堵のあまり、神奈は細い息を吐き出す。隣の威吹まで溜息を吐き出し、果てはその場にしゃがみ込んでいた。超怖ぇ、とまで呟いている。  風貌と雰囲気のせいか、陣郎の方が粗暴だと誤解されやすいが、容赦がないのはもう一人の助手の方なのだ。  浜上は必死に呼吸を整えながら、殺意を(たぎ)らせた目でこちらを睨み付けていた。それを見返しながら、それで、と神奈は口を開く。 「浜上さんは、周東さんのためだと言いましたが、彼女に頼まれて、威吹君を刺したんですか?」 「そんなこと、わたし、頼んでない! 頼むはずないでしょう!? わたしを守ろうとしてくれたのは、小坂くんなんだから!」 「さすが、周東! 柳屋、俺を殺した男の話なんか聞くなよ!」  周東が後ろから神奈の肩を揺さぶっては、必死に訴える。威吹の主張もあって、挟まれた神奈の鼓膜は破れそうだ。 「ああ、未散がそんなことを言うはずがねぇ」  唸るような声で浜上が同意する。呼吸は落ち着いているものの、ここに来る前から既に満身創痍(まんしんそうい)だった上に散々抵抗した疲労で、石畳から起き上がれないらしい。億劫(おっくう)そうに上げた顔には、嘲笑と恍惚(こうこつ)(よど)んだ目が嵌め込まれていた。 「綺麗な未散。可愛い未散。頭も良くて、正しくて、優しい未散。そんな未散が、誰かを傷付けたいなんて思うかよ。でも、そんな未散が絵馬を掛けた。神サマに縋りたいくらい、追い詰められたってことだ!」  激高した浜上は、吐き捨てるように吼えた。絵馬の単語で、びくり、と威吹が肩を震わせたのが、神奈には視えた。 「絵馬って、何……? わたし、知らない……」  肩を震わせる未散が声を絞り出す。彼女の否定が届いているのか、いないのか、浜上はたっぷりと憐憫(れんびん)を込めた目で、周東を見つめた。 「大丈夫だ、未散ぅ。お前がどんなに汚い感情を持っていたって、ずうぅっと見守って来たこの俺だけは、ちゃぁーんと分かっている。だから、すぐに気付いた。あの男、小坂威吹に、付き纏われているって。不憫で可哀想な未散。弱みを握られたのかも知れない。そうじゃなきゃ、あんな糞野郎が未散のそばにいるはずがねぇ。あんな男が釣り合う訳がねぇんだからな」 「だから、わたしは………!」 「そして、周東さんが書いた絵馬で確信したんですね」  周東を後ろ手で牽制(けんせい)し、代わりに神奈が浜上に相槌を打った。何か言いたそうな威吹には、視線で黙らせる。  皮肉なことに、浜上から守ろうとする威吹の存在が、浜上の妄想に拍車をかけ、更にストーカー行為をエスカレートさせたらしい。威吹に対する、浜上の嫉妬や羨望もあっただろう。  浜上の中の周東未散は、純真無垢で穢れとは縁遠い存在だ。さながら女神の如く、絶対唯一なのだ。そんな彼女の隣にいる小坂威吹は、許し難い害虫だったに違いない。  もし、と神奈は思う。もし、浜上順太が呪いを真に受け、縁切神社を信じていたなら、小坂威吹の死を願う絵馬を掛けていたのは、彼だったのかも知れない。 「この神社の柱に、威吹君を刺したナイフを刺したのは、浜上さんですね。周東さんに、自分が成し遂げたと伝えるために」  神奈がすぐそばの柱を指差すと、そうだ、と浜上の声が肯定する。 「小坂威吹を殺したのは神サマなんかじゃねぇ、俺だ。未散のお願いを叶えたのは、俺だけだ。未散なら分かってくれる」 「ボクには分かりません。冤罪を救った彼女のために、何故そこまでします?」 「それから、小坂威吹さんの従兄妹という理由で、彼女を襲った理由も是非、お伺いしたいですね」 絢緒が、石畳に倒れ込んだままの浜上を冷たく見下ろす。返答次第では、今度は浜上の脳天に足を振り下ろしそうだ。 「周東未散さんと初めて会ったのは、万引きの濡れ衣を着せられた時でしょう。もしかして、その時もそれ以降も、まともに話さえしていないのではありませんか」 「俺は未散と話して良い人間じゃねぇよ」  そんなことも分からないか、と浜上は、尋ねた絢緒を鼻で笑った。 「アンタみたいな奴には、絶対に分からねぇよ、分かって欲しくもねぇな。クズでバカで、どうしようもない俺からすれば、未散は奇跡だ。あの時、赤の他人なのに、濡れ衣を着せられた俺を助けてくれた。だったら、こんな俺でもできることで、恩を返さなきゃ。どんな内容だって、未散のお願いなら絶対だ。未散が誰かに助けを求めるなら、俺がそれに応える。それだけだ」  彼の動機はある意味、極端なほどの純粋さなのだろう、と神奈は思った。しかし、行動が明らかに間違っている。  はあ、と浜上は痩せた頬を桃色に染めて、恍惚とした溜息を吐き出した。 「未散からの、俺だけへのメッセージ。あの男じゃない。俺の、俺だけの、未散だ。未散ぅ、未散ぅ」 「い、いや……!」  熱に浮かされた粘付く声に、周東の顔から血の気が引く。下がろうとして、拝殿の階段に蹴躓(けつまず)き、その場に尻餅を着いた。 自分に恐怖する姿でも、視界に入れるのが嬉しいのか、浜上は口角を持ち上げ、周東への称賛を(うわ)(ごと)のように呟く。脚と手を必死に動かし、地面を這うようにして、彼女に縋ろうとしていた。濁った目に映るのは、彼の女神だけだ。 哀れなほど美しい顔を怯えさせた周東は、震える体に(むち)打って、何とか距離を取ろうとしている。  そこに、冷たい疾風(しっぷう)が吹き込んだ。 「それ以上、近寄んな!」  小坂威吹だ。彼は浜上の前に躍り出ると、両手を広げて立ち(ふさ)がった。 「周東が迷惑しているって、分からねーのかよ! やめろよ!」  死者である彼が叫んだところで、見鬼でもない人間に、彼の声は聞こえない。案の定、浜上はあっさりとすり抜けてしまう。想定内だったのか、舌打ちした威吹は浜上に向かって、憤怒(ふんど)喝破(かっぱ)を叩き付けた。 「好い加減に、しろ!」 「ちょ……!」  止める間もなかった。威吹の叱責(しっせき)がぐらぐらと脳味噌を揺さぶり、神奈は頭を抱えて膝に手を着く。絢緒が駆け付ける気配がした。同じく霊障にあたった周東も、賽銭箱の脇に(もた)れて気絶してしまった。 「ぐ、ぇえ……!」  立ち上がろうと四つん這いになったところで、浜上が嗚咽と共に胃の中をぶち撒けた。苦く酸っぱい臭いが鼻を突く。 「くっそ、何で……!」  血を吐くように、威吹が叫んだ。 「何でアンタみたいなのが生きているんだよ!? 何でオレを殺した!? どうして周東を、最後まで守らせてくれなかったんだ!?」 「威吹君、そこまでだ」  (ひたい)を抑え、顔を強張らせたまま、神奈が制止の声を投げる。浜上の惨状を目の前にして、威吹が我に返った。途方に暮れたような顔でこちらを振り返ると、横たわる周東に気付いて慌てて走り寄る。 「周東!」 「二人共、君の波長にやられただけさ。すぐに回復する」  と言うか、して欲しい、と神奈は自分の体調への願望を心中で付け足し、短い溜息を吐き出す。まるで(きり)で刺されたように頭が痛んだ。何の影響もないのか、心配そうに肩を支えて来る絢緒が羨ましい。 「周東、大丈夫か? ごめんな、周東」  威吹は意識がないと分かっていながら、周東の目の高さに合わせてしゃがみ込む。彼女の肩に触ろうとするものの、触れないことを思い出して手を彷徨(さまよ)わせ、結局、力なく腕を下ろした。  せめて、と神奈は思うが、周東は目を覚まさない。目を開けたところで、死者を視ることはできない。 「柳屋から聞いた。オレが死んだことで、自分を責めていたって。ごめんな」  本当にごめん、と威吹は繰り返し、小さく頭を下げた。 「頼られたからには最後まで、周東を守りたかった。初めて、ちゃんと、す、好きになった女の子だから。初めは何でもできて凄い子だって思っていたけど、一緒にいて、色々気付いた。最後の方はストーカーよりそれが心配で、オレ、何とかしようとしたんだけど」  唇を噛み締めた彼は、でも、と湿った声を振り絞った後、何とか笑みらしいものを浮かべる。赤くした目が、彼女を恋しいと語っていた。 「死んじゃった。オレ、死んじゃったよ。守るって約束、果たせなかった。死んでからも、周東が心配で仕方なかった。それがオレの心残りだった」  それで、あの公園にいたのだ。生前、彼女を待っていたあの公園に。  独白のように、威吹はぽつりぽつりと続ける。 「だけど、そうやって誰かを心配させているのは、オレも同じなんだ。死んでから、初めて知った」  ふと、絢緒が顔を上げた。浮かれていた御神使達が怯えたように身を寄せ合っているのが、神奈には視えた。  夜陰の中から白が滲み出す。それが段々大きくなり、ぼんやりとした灯りを形作る。  提灯だ。丸い吊り提灯が神奈の頭ほどの高さでふわふわと浮いている。  その後ろには、死人のような顔色の喪服の男。未踏(みとう)の初雪のような髪を後ろに流し、露わになった額には、小指ほどの大きさの皮膚が張り出している。二つの角を持った獄卒だ。  威吹を迎えに来たのだ。 「周東のことは気になるけど、いつまでもこの世でうろつくのは、俺を心配する人達の気持ちを無駄にする。だからオレ、あっちに行くよ」  周東の淡雪のような色の頬を、そっとひと撫でして、威吹は立ち上がった。  彼が振り返ったところで、感動のエンディングを迎える。はずだったのが、浮かぶ吊り提灯と角の生えた男に間抜けなほど驚いたせいで、見事に台無しである。 「ど、どちら様ですか!?」 「ああ、ボクに依頼した地獄の中間管理職、獄卒の黒丸(くろまる)だよ。君を迎えに来たんだ」 「いかにも」  神奈がそう紹介すると、喪服の男は愛想どころか表情もなく、一言肯定するだけ。  ど、どうも、と威吹は愛想笑いのようなものを浮かべた後、神奈に近付いては遠慮がちに肩をつついた。 「あ、あのさ、柳屋。オレ、あの世に逝く気はあるんだけど、できればその前に、謝りたい人達が、結構いるんだけど」  部活の仲間達や母親のことだろう。おずおずと切り出した威吹は、(しき)りに首の後ろを掻いた後、やっぱ駄目かな、としゅんとして肩を落とした。  しっかり聞こえていた黒丸が神奈を見る。無表情な分、こちらは詰問されている気分だ。 「柳屋。(われ)は死者の未練を解決しろとは言ったが、未練を摩り替えろとは言っていない」 「そう言われてもさぁ」 「なら、わしらが手を貸そう」  どうしたものか、と神奈が思考しかけたが、最近聞き慣れた声が中断させた。視れば、腕を組み仁王立ちした鳩の方だ。その後ろには、彼女の着物の裾を掴んで、おどおどしている狐の方もいる。 「こ、今度は誰!?」 「ああ、ここの神様のお遣いさ。それでお二方、手を貸すというのは?」  驚いて声を引っ繰り返す威吹をよそに、神奈が尋ねた。たっぷりした腹を揺らして、へどもどする狐の方が何とか答える。 「は、はい。まだ、全快とはいきませんが、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)様が快復されまして、やな、柳屋さんに、よくよくお礼をするよう、おっしゃったのです」 「此奴(こやつ)だけでは心許(こころもと)なかろう。わしも手伝うことにしたのだ。話を聞くに、そこの人の子に、力を貸してやれば良いのだな?」  ええ、まあ、と神奈は躊躇(ためら)いがちに頷いた。 「ボクとしては有り難い申し出ですが、本当に良いんですか?」 「わしに二言はない。その代わり、柳屋。そなた達の住まいを壊した件は、これで帳消しにしろ」  何とも高飛車(たかびしゃ)な鳩の方の言い草だが、要は弁償代わりらしい。神奈としては、既に落着したつもりだっただけに、思わず虚を突かれた顔になってしまった。  思い起こせば、この鳩の御神使、多田八幡宮近くで火事があった時、近所の幼稚園の園児を心配していたくらいだ。子供好きなのだろう。死んで彷徨う威吹を、哀れに思ったのかも知れない。あの世へ旅立つ彼の胸の内が軽くなるなら、神奈に断る理由はなかった。  海月(くらげ)が深海を揺蕩(たゆた)うように、吊り提灯が電灯も届かない夜の闇へと(ただよ)い出す。それを先導にして歩き出す黒丸の後に、威吹が続いた。途中、彼は立ち止まって振り返ると、じゃあな、と神奈に向かって右手を大きく上げる。 「色々有り難うな、柳屋。それと、周東を頼む」  そして、吊り提灯の灯りが段々と小さくなるにつれて、ピーコートの背中も闇夜に薄まり、やがて消えてしまった。  早速行動を始めたらしい御神使達の姿も視えない。  風もない夜。境内には、冬の凍てつくような静けさが落ちる。  時折、気絶した男達の痛みに唸る声が聞こえるだけだ。そこに、身悶えするような声が重なった。 「未散ぅ、未散ぅ、みちるぅうう」  浜上が持ち直したらしい。彼は気絶した周東を視界に入れるや、肘を交互に前へと繰り出し、足裏で地面を蹴っては、匍匐(ほふく)前進(ぜんしん)の格好で突き進もうとする。文字通り、這ってでも縋り寄ろうとするとは、凄まじい執念だ。  舌打ちした神奈が横たわる周東の前に立ち、浜上の視界から隠すと、彼の顔は瞬く間に憤怒(ふんぬ)に染まった。目を尖らせて唾を飛ばし、訳の分からないことを吠え立てる。手の怪我もあるのに、何とか四肢に力を入れて立ち上がろうとしていた。 「ぃやかましい」  が、彼の脳天に振り下ろされた陣郎の拳が、その場に撃沈させた。浜上は、今度こそ気を失ったらしい。  陣郎は手にしていた黄と黒のロープ――駐車場に張られている進入禁止の目印――で縛り上げようとする。姿が見えないと思ったら、男達を片付けつつ、これを探しに行っていたらしい。 「陣郎、その人のポケットを探って。多分、持っているはずなんだ」  神奈の指示で、陣郎が浜上のブルゾンに手を突っ込んだ。しかし、吐瀉物(としゃぶつ)まみれで四苦八苦しているらしい。見かねた絢緒がロープを受け取り、手を貸す。  出来上がったのは、何故か、それは見事な亀甲(きっこう)縛りをされた浜上だった。  ただでさえ面倒なのに、彼が更に何かに目覚めたらどうしてくれるのだ。  冷めた目で見つつ、神奈はスマホを取り出した。 「……ん……」 「ああ、お目覚めかな、周東さん」  電話のアイコンを叩こうとした手を止め、神奈はスマホを仕舞う。どうやら出直す手間が省けそうだ。  ぼんやりした様子の周東が、長い睫毛を二度、三度と瞬かせる。(ようや)く意識が覚醒したのか、慌てて立ち上がると、ダッフルコートのポケットから、わたわたとスマホを引っ張り出した。 「け、警察! 警察を呼ばないと……!」 「ああ、そういう猿芝居はいらないよ」  コンビニで箸を遠慮するように、神奈は顔の前で手を振った。 「小坂威吹君を殺すよう、浜上順太さんに(そそのか)したのは、君だよね」 「え。え……?」  目を()く彼女の近くから離れ、神奈は絢緒から探し当てたものを受け取ると、軽く持ち上げて見せる。二体の絵馬だった。 「……それ……」 「君に執着する浜上さんなら、肌身離さず持っていると思ったんだ」  一字一字が美しくも規則正しい文字の羅列は、書き手を現すようだ。しかし、その内容は、何とも物騒だった。 『小坂威吹が 死にますように』 『小坂威吹のいとこが 死にますように』  音だけでは、いとこの漢字は分からなかったのだろう。見覚えのある字は、威吹に貸したままだと、周東から返却を頼まれたノートと同じ筆跡だった。 「周東さん、君は浜上さんの言った通り、絵馬を掛けたんだ。君の筆跡は知っているよ。ちなみに、ボクが『小坂威吹の従兄妹(いとこ)』を名乗ったのは、彼の所属していたサッカー部と、周東さん達だけなのさ」  神奈が襲われた時、浜上は言っていたのだ。『小坂威吹のいとこ』である神奈に、『お前だけは殺す』と。 「サッカー部には、ボクの連れも、『小坂威吹の従兄妹』として挨拶しているんだよ。でも、浜上さんが殺そうとしたのは、ボクだけだった」  スマホの画面を叩こうとしていた周東が、吐息を一つ零してポケットに戻した。先刻の助手達の大立ち回りを目にしているだけに、逃げる気はないらしい。 「あなた、本当は何なの? 小坂くんの身内じゃないでしょ」  艶やかな後ろ髪を掻きやる動作が、何とも板に付いている。怯えの表情は綺麗に消え失せ、哀れな美少女の下から出て来たのは、それはそれは綺麗に笑う女の顔だ。細めた目の奥から、氷のような敵意を向けて来る。  ご名答、と神奈は軽妙に答えた。羽織の裾を(さば)いて、(うやうや)しくお辞儀する。 「申し遅れまして、死んだ人間の心残りを解消する成仏屋、柳屋です。拝み屋、みたいなものかな。獄卒からの依頼により、小坂威吹君の成仏のために参上した次第さ。威吹くんは無事向こうに見送れたけど、始末は着けさせて頂くよ」  不可解そうな顔をした周東だったが、威吹の名前を出した途端、ぐっと眉根を寄せた。 「知っていると思うけど、わたし、ピアノの練習で忙しいの。あなたに付き合うほど、暇じゃないわ」 「あ、苦情なら、ボク達だって言いたいんだからね」  腕を組んだ神奈が、不服そうに口を尖らせた。 「浜上さんが自己(じこ)顕示欲(けんじよく)丸出しで柱に刺したナイフ、あれを拝殿の下に投げ込んで隠したのも君だろう? お陰で家に石を投げ込まれるわ、寝不足だわ。全く散々だよ」 「は、はぁ? あなた、何を言っているの?」  前半についてか、後半についてか、周東は困惑している。そんな彼女を差し置いて、とにかく、と神奈は仕切り直した。 「ボク達も寒いし、さくさく話を進めましょうか。まずは犯人、浜上順太さんについて。ねっちょりしたさっきの告白で、周東さんへのストーカー行為は明らかだ」 「ちょっと……!」  自分の名前が出たことで、周東は帰るタイミングを逃してしまった。出かかった文句をへの字にした唇で押しとどめ、不満一杯の顔ながら、仕方なさそうにその場に留まる。 「切っ掛けは、浜上さんの万引き冤罪(えんざい)だ。ドラッグストアに確認したところ、彼が万引きしようとしたのは、薄いピンク色のマニキュアだって。君が塗っているような、ね。そんなの、彼が買うかな」  神奈があられもない姿の浜上を一瞥する。ぐったりしている彼は暗い色だらけの格好だ。女装趣味でも隠しているなら話は別だが、そんな風には見受けられない。 「ボクの憶測だけど、万引きしていたのは、君じゃないかな。女性の手に収まるくらいのボトルなら、鞄に放り込むのなんて造作もない。面白半分なのか、ヒーロー願望なのか、君が浜上さんを万引き犯にでっち上げて、救ってみせた」 「本当にあなたの憶測ね。証拠がないわ」 「防犯カメラ、確かめてみる?」  神奈が悪戯っぽく笑うと、周東は自分の指先を握り込んだ。後ろ手に隠すのは、矜持が許さないらしい。 「ま、今は本題に戻ろうか。それを切っ掛けに、浜上さんは君に執着し始めた」  あっさり引き下がった神奈は、話を続ける。 「初めは君も、本当に悩んでいたんだろう。それに気付いた威吹君が、警護を買って出た。ところが、彼はそのうち、気付いてしまった。最近頻発している放火の犯人が、君だってことに」  羽織の裾を払い、神奈がコートのポケットから、一体の絵馬を取り出した。角張った字が並んだ板。 『火事がなくなりますように』  火をつける周東を止めようと、威吹が書いた絵馬だ。  スーパーの駐車場で神奈達に火事を知らせ、神奈から逃げた彼は、哀れなほど狼狽(うろた)えていた。誰にも言えずに死んだ彼には、尚更、この絵馬が頼みの綱だったはずだ。  神奈が絵馬の効果はないと告げた時、威吹が泣き笑いをしたのは、新田の絵馬が成就しないことに安堵し、同時に、火事は収まらないことに落胆したからだ。  威吹は真実を話さなかった。その代わりに誤魔化しもしなかった。ひたすら口を閉ざしたところに、真っ直ぐな彼の葛藤を伺い知ることができる。ただただ、苦しかっただろう。 「周東さんは、子供が嫌いらしいね。殆(ほとん)どの放火場所の近くに、子供の集まる場所がある」 「騒がしい音って、苦手なの」  神奈の指摘に、周東は(わずら)わしそうに大きな嘆息を返した。威吹の絵馬を目の前にして、悪びれる様子もない。放火の証拠はないと、高を括っているようだ。 「ピアノを弾くにしても、うるさくて気が散るし。言っておくけど、最初から死人を出すつもりはないの。火をつける場所も選んでるし、実際、誰も死んでいないでしょ。単なるストレス発散。文字通り、ちょっとした火遊びよ」  当人はそう正当付けるが、放火に怯える方は(たま)ったものではない。  陣郎が、忌々しそうに鋭く舌打ちするのが聞こえた。 「人知れず悩み、練習不足もあって、威吹君はレギュラー落ち。ますます誰にも相談できず、新田君に八つ当たりしていた彼に、絵馬を掛けて呪うよう勧めたのは君だね。彼はその(たぐい)を信じて実行するタイプじゃない。他ならぬ君の言葉だから、絵馬を掛けた」 「それは小坂くんの意思でしょう」  わたしは提案しただけよ、と周東は薄い笑みを唇に浮かべ、やんわりと否定した。  そんな彼女の言葉を聞き入れてしまったばかりに、威吹は死んでも罪悪感に苦しむことになった。呪った相手である新田は何も知らないのに、謝りたいと項垂れていた姿を、神奈は忘れない。 「新田君を呪った絵馬を掛けた後、威吹君はこの絵馬を掛けた。その後、放火をやめさせようと君を説得して、君に利用された浜上さんに刺された」  神奈は彼女の足元に、二体の絵馬を放り投げる。彼女が小坂威吹と彼の従兄妹を呪った、否、浜上への依頼内容を書いた絵馬だ。 「浜上さんにボクを襲わせたのは、ボクが、縁切神社について聞いたことが理由かな」  威吹の身内としての親密さを神奈に聞いて来た時、周東は既に警戒していたのだ。そして、自称威吹の従兄妹の口から縁切神社の単語が出たことで、浜上の手で始末させる決心をした。手を下すのは自分ではない。そんな気楽さもあったに違いない。 「君は、浜上さんの執着は知っていた。それを理由に彼が行動する確信もあった。ご丁寧に、祈願という絵馬の演出までして、彼が崇拝する君自身を利用した。縁切神社なら、似たような内容がぶら下がっている。筆跡に覚えがなきゃ、誰が書いたか分からない」  神奈は絵馬掛けを目で示してから、無感動に周東に視線を戻した。 「君、威吹君の好意に気付いていただろう。学校やピアノ教室の帰り、それから深夜にも、公園で逢っていたくらいなんだから。そして威吹君が刺されたあの日も、ピアノ教室の後、浜上さんが狙いやすい時間になるのを見計らっていた」  死んだ威吹がいた公園は、彼女との逢瀬(おうせ)の場だ。  どんなに望んでも誰とも話せない、触れられない死者。彼女なら、と呑気な理想を見ていたのではない。完璧な周東の秘密を知る威吹は、彼女を案じて、あの公園に一人、生前と同じく待っていた。  柳屋との初対面で、自分の個人情報に挙動不審だったのは、凶行に及ぶ周東を隠すため、否、守ろうとするためだ。 「柳屋さん、だったかしら?」  瑞々しい桃色の唇に指を添え、周東が小首を傾げた。彼女の整った顔を酷薄(こくはく)な微笑みが彩る。 「あなたは(しき)りに小坂くんの肩を持つけど、他人の秘密を知った人間なんて、浅はかよ。わたしのことを知った彼が、悪用するとは思わないの?」 「浅はかはどっちだ。君の性根と一緒にしないで欲しいな」  呆れた顔で、神奈はばっさりと切り捨てた。 「容姿端麗、頭脳明晰、正義感に溢れて、おまけに優しい周東未散さん。周りの期待や羨望は、さぞ厚くて重いだろうね。ストレスから来る万引きや放火も、分からなくはない。実行は無理だけど」 「分かったような口を叩くのね」  綺麗な()を描いた周東の唇から、毒を含んだ(とげ)のような声が漏れる。 「それとも同情かしら? あなた如きにそんなものをされるなんて、屈辱よ。わたしは今まで、血反吐(ちへど)を吐くような思いで努力して来たの。周りが望む通りのわたしで、応えてあげた。万引きや放火くらい、何だって言うの。それくらい許されても良いはずだわ。ほんの出来心程度のことで、わたしが今まで築いて来た経歴や評価に傷が付くなんて、割に合わないでしょ」 「やっぱり、それが本音か」  神奈は吐き捨てるように続ける。 「ボクはそんな君を理解できないし、したくもない。でも威吹君だけは、君を心配していたんだ。死んだ後も」  どうだか、と演技臭くも肩を竦める周東に、信じた様子はない。神奈は、わざとらしくも嘆息してみせる。 「白壁(はくへき)()()に気付いた威吹君を、君は許せなかっただけだ。威吹君は君の秘密を、文字通り墓場まで持って行くつもりだったのに。君は、哀れだね」  (またた)く間に、周東の微笑みが凍り付いた。艶やかな唇を(わず)かに戦慄(わなな)かせたかと思うと、(きし)む音が聞こえそうなほどに歯を食いしばった。憤怒と憎悪を燃え(たぎ)らせた目で、神奈を()め付ける。  万引きと放火の露見とそれを知る威吹の存在は、彼女の矜持(きょうじ)をじわりじわりと追い詰めた。そして今、神奈の憐憫(れんびん)が、彼女の自尊心に傷を付けたのだ。 「あなた、さっき言ったわよね。小坂くんを殺すよう唆したのは、わたしだって」  言いがかりも(はなは)だしい、とそれでも美しい周東は言い放つ。 「確かに、わたしは絵馬を書いて、掛けた。でも、それだけ。犯罪でさえない。そこの浜上って人が絵馬の内容を本気にして、勝手に威吹君を刺したの。わたしは無関係よ」  おい、と陣郎が低い声を出すが、絢緒が牽制(けんせい)する。だが、周東はそんな二人の様子を意に介さず、だって、と傲岸(ごうがん)不遜(ふそん)な笑みを顔一杯に広げた。 「縁切神社に絵馬を掛けたら、必ず人が死ぬの? そんな呪いがあったら、ここにある絵馬の分だけ、人が死んでいるわ。世の中、死人と殺人犯だらけよ。わたしが絵馬を掛けたことが原因で、小坂くんは死んだの? 違うでしょ? 浜上って人が刺したの。絵馬に宛名がある訳でもないのに、わたしが唆したという確証はないわ」  周東を(した)っている人間全てが、彼女自らの『お願い』を必ず聞き届けるとは限らない。思いの丈を量る(すべ)はないのだ。ましてその『お願い』が、人を傷付け、命を奪うものなら、尚更だ。 「それから、一つ訂正してあげる」  何とも愉しそうに、周東は含み笑みを漏らした。 「あなたについての絵馬を掛けたのは、縁切神社のことを聞かれたからじゃない。あなたが気に食わなかったからよ。身内を殺されて可哀想なあなたを、折角このわたしが同情して、優しい言葉までかけてあげたのに、全く有り難がらない。わたしのせいだって、泣いて謝ってあげたのに、慰めるどころか説教するなんて、あなたって最悪よ。信じられない」 「馬鹿馬鹿しい」  剃刀(かみそり)のような冷たさで、神奈は一蹴した。 「どれもこれも、可愛い自分のためか。反吐(へど)が出る、とは、正にこのことだ」 「何ですって?」 「威吹君の頼みだから、穏便に済まそうと思ったけど、無駄だな。周東未散さん」  (すい)()を跳ね上げた周東だったが、出し抜けに名前を呼ばれて押し黙った。 「その傲慢(ごうまん)さに敬意を表して、君に良いことを教えてあげよう。実は威吹君、君以外にも絵馬を掛けられていたんだ」  見せたのは、縁切神社に初めて訪れ時、絢緒が見付けた絵馬だ。 『小坂威吹が 死にますように』  周東とはまた違う、丸みを帯びた女の子らしい、しかしどことなく(かた)い印象の字が並んでいる。  あら、と(あご)に手を当てて首を傾げる周東は、いつもの美しい少女の様子だった。 「小坂くんは、誰かの恨みを買っていたのかしら?」 「ボクもそれが疑問だった。だけど、同じ筆跡の絵馬を探し出したら、謎が解けた。絢緒」 「はい」  先に投げ出された二体の周東の絵馬の上に、助手は持っていた風呂敷を広げた。石畳の上に硬い音を響かせ、ぶち撒けられたのは、絵馬だ。それも、十や二十では足りない。大量の絵馬だった。 「締めて四十七体です。初午の日に御焚(おた)き上げしてしまったので、実際はもっとあったと思われますが」  周東は気味が悪そうに顔を顰め、体を捻って後退(あとずさ)った。  丸っこくて固い字体、同じ筆跡の板は全て、たった一人を呪うためだけの絵馬だ。一体だけでも悪意が溢れているのに、山を築くほどとなれば醜悪(しゅうあく)さしかない。 簡潔な呪詛の言葉に、純粋ささえ感じられる。  少しも動じることなく、神奈は掌を広げ、絵馬の山を示した。 「さっきの威吹君を呪った絵馬は、このうちの一体さ。呪われた相手は、指を使うことが得意で、見目麗しく、皆に好かれていて、威吹君とも親しかった。君を呪ったんだ、周東未散さん」 「え……?」  え、と再び呟いた周東は、口が半開きのままだ。ごっそりと表情を失った顔で、足元で裾野(すその)を広げる山を凝視する。  絵馬が二、三体、折り重なってできた山から滑り落ちた。 「小坂威吹君は親しかったサッカー部にさえ、君のことを話していない。そして君も内緒にしていた」  さて、問題です、と番組の司会者のような口調で、神奈が人差し指を立てる。 「君と小坂くんの関係を浜上以外で唯一知っているのは、一体誰でしょう?」  周東は瞬きもしない。大きく見張った眼は血走り、小刻みに揺れる瞳孔は、必死に思考を巡らせている。いや、思い当たった人物を一心不乱に打ち消している。噛み締めた唇は、口を開けば(さら)してしまいそうな醜態を(こら)えているようだった。 「答えられないようなので、ここでヒントです。君、もしかしてその人から、縁切神社について、教わったんじゃない?」  神奈のヒントは最早(もはや)、正解も同然だった。奈落の底を前にしたように、周東は体の奥から来る震えを止められないらしい。自制もできず、ガタガタと震えている。 「な、あ、なぎ、さちゃ……」 「呼んだ? 未散」  短い悲鳴を上げて、周東が顔を上げた。今しがた鎮守の杜から出て来た様子で、ツインテールを垂らしたダッフルコート姿の瀬川凪沙が立っていた。狐に化かされたような顔をしていた彼女だが、親友の姿を認めると、嬉しそうに走り寄って来る。 「未散ったら、探したのよ! 小坂のいとこも、こんなところで、何をしているの?」 人除けの結界が解け、瀬川の目には、突然神社が現れ、そこに周東がいるように見えるのだろう。親友を目の前にして、腰に手を当てた瀬川はぷりぷりと怒る。 「一人でいちゃ危ない、ってあたし、未散に言ったでじゃない! 心配させないでよ!」 「な、凪沙、ちゃん」  突き抜けたソプラノがキンキンと辺りに反響した。いつもの笑顔を強張らせた周東が、震える声で親友の名前を呼んだ。蒼褪めた咽喉(のど)が上下するのが見える。 「凪沙ちゃん、なの? わたしを呪う、絵馬を掛けたの。凪沙ちゃんが……?」 「何を言っているのよ、未散」  心底不思議そうな声に、周東は安堵の息を吐く。そんな彼女を見て、瀬川は三日月のように目を細めた。 「絵馬だけじゃないわよ」 「……は……?」 「だから、絵馬だけじゃないってば。ああ、これ。あたしが書いた絵馬じゃない」  愕然とする周東は、溜息のような一音を漏らした後、それ以上の声が出ない。大きな目が更に見開かれ、今にもごろり、と落ちそうだ。彼女の足元の山に気付いた瀬川は、しゃがみ込んで絵馬を手に取ると、あからさまにガックリと肩を落とす。唇を突き出す様は拗ねた子供のようだった。 「残念、バレちゃったのね。これじゃあ、また最初からやり直しよ。折角、髪まで切って頑張ったのに。本人に知られちゃったんじゃ、仕方ないけど」 「ああ、あなたでしたか」  絢緒が思い出したような声を上げた。 「つい最近も、髪の毛の束が桐の箱に入れられて、拝殿に置かれてあったと聞きました。年齢から考えて、昔の件は違うようですが」 「あんた、誰? 小坂のいとこの知り合い? 良く知っているのね」  目を丸くする瀬川は立ち上がり、ツインテールの端をそれぞれ両手で掴むと、するり、と引き抜いた。石畳の上に打ち捨てられた二つの髪の束が、まるで蜷局(とぐろ)を巻く蛇のようだ。ちょっと恥ずかしい、と照れた瀬川の髪は、ショートカットより少し長いくらいだろうか。おくれ毛が気になるのか、首の後ろを盛んに撫で付けている。 「凪沙ちゃん、その髪……!」 「ウィッグだよ。最近のやつって凄いよねぇ」 「何で、そんなこと……」  周東も気付いてなかったらしい。唖然とする親友に向かって、瀬川は微笑ましそうに目元と頬を緩めた。 「あたしのおばあちゃんから、方法を聞いたの。おばあちゃんはね、おじいちゃんが大好きで、神様にずっとお願いしていたんだって。振り向いて欲しい、好きになって欲しいって、絵馬をたぁーっくさん掛けて、綺麗な黒髪も切って神社に奉納したの。あたしのお母さんがお腹の中にいる時に、おじいちゃんは死んじゃったけど、おばあちゃんは今でも、おじいちゃんが大好きなんだって」  だからね、と瀬川は三日月のように目を細めて続ける。 「わたしも、神様にお願いごとを聞いてもらおうと思って、髪の毛を捧げちゃった。でも、いきなり短くなったら皆不自然に思うし、勘付くかも知れないから、隠していたの。神様にお願いしたことがバレたら、効果がなくなっちゃうもん」  その甲斐あって、叶えてもらえそうよ、と瀬川は、小さな子供のように、その場で小さく飛び跳ねた。 「喜んでいるところ、申し訳ない。瀬川さん、教えて欲しいんです」  神奈が礼儀正しくも、小さく挙手する。何よ、と水を差された瀬川は、不満顔で振り向いた。 「全ての絵馬は、周東未散さん個人に関係しているのに、どうして、小坂威吹君の絵馬まで掛けたんですか?」 「だってあいつ、小坂の分際で、未散を好きになりやがったのよ!」 バッカじゃないの!? と瀬川は吐き捨てた。その顔は威吹に対する侮蔑(ぶべつ)で染まっていた。 「ストーカーから未散を守ろうとしたのは、まだ許せた。一丁前にナイト気取りだったのは笑っちゃったくらいよ。だけど、未散と連絡を取り合ったり、こっそり話し合ったりし始めて、目障りだった。あいつの頭の中が未散だらけだと思ったら、虫唾(むしず)が走ったわ。身のほどを知らない、サッカー狂いの脳味噌筋肉野郎なんか、未散が相手にする訳がないのに!」  そこで小さく溜息を吐いた神奈は、何とも言えない目で天を仰いだ。  瀬川の登場が、威吹を見送った後で良かった、とつくづく思う。己の恋心が想い人の親友に露見していた上、死後になって想い人の前で、聞くに耐えないほど、罵倒されているのだ。居たたまれない。  後半だけを聞けば、瀬川が威吹に横恋慕していたか、交際相手を周東に奪われたような台詞だが、瀬川の想いの先にいるのは、親友の周東未散だ。瀬川が抱いていたのは、ある種の同族嫌悪なのかも知れない。 「それに、あんまり小坂が未散にくっついていたら、未散がストレスを発散できなくなるじゃない」 「それは、周東さんの悪癖のことかな」  すかさず神奈が盗癖や放火癖を暗に示すと、瀬川は驚いたように目を丸めた。 「何よ、小坂のいとこは、そんなことまで知っているのね」 「……な、ぎ……?」  周東には最早、親友の名前を呼ぶ余裕もない。これ以上にないほど大きく見張った目には、驚愕しか浮かんでいない。そんな彼女の肩を掴み、瀬川は安心させるように満面の笑みを見せた。 「あたしは周東未散の親友よ。大丈夫、誰にも言わないわ。親友だからこそ、万引きも放火も知っているのよ。ストーカーの名前も、ストーカーされ始めた切っ掛けもね」  しかし親友を名乗る瀬川も、 威吹が自分と同様、周東の盗癖や放火癖を知っていたとは、夢にも思っていないだろう。もしそうなら、威吹に対する瀬川の悪態は、あの程度では済まされないだろう。嫉妬の炎は、更に猛り狂っていたに違いない。  瀬川の台詞は、周東を狼狽させるには十分だった。美しい少女の顔からは血の気が失せ、まるで死者のようだ。歯と歯がガチガチとぶつかり合う音が、彼女から聞こえた。  神奈は初めて二人に会った時を思い出す。浜上を万引きの冤罪から助けたことを、瀬川が知っていたことに、周東は酷く驚いていた。あれは照れ隠しなどではなく、本当に動揺していたのだ。 「瀬川さんは、浜上さんの存在も知っていたんですね。彼についての絵馬は、何故書かなかったんです?」  威吹への侮蔑を吐き捨てた彼女の様子からして、いの一番に浜上の死を願う絵馬を掛けそうではある。  神奈の問いに、瀬川は即答した。 「だって浜上は、未散を遠くから眺めて、(あが)めているだけだもの」  まるで、自分もそうしているような口調だった。 「直接には接触して来ないし、そんな度胸もないわ。未散に不快な思いをさせたことは、正直殴ってやりたいけど。でもある意味、浜上の行動って普通の人間の反応なのよ。未散を遠くから眺めて、同じ時間を生きていられることにだけ、ひたすら感謝する。皆、そうするべきなの。それが正しいのよ」  地球上の全ての言語を適当に混ぜた何かを無理矢理聞かされたような顔で神奈は閉口し、首の後ろを掻いた。  聞いておいて何だが、全く理解できなかった。  見れば、絢緒は不可解な生き物を見るような目だし、陣郎に至っては欠伸(あくび)を噛み殺そうとして、失敗している。  一方、親友の話を聞かされた周東は、震えが止まらない自分を抱き締め、荒くなった呼吸を必死に整えようとしていた。今では、親友を凝視する瞳までもが、大きく見開かれた目の中で小刻みに揺れている。黒いタイツに包まれた足が、一歩、また一歩と後退る。そんな彼女の様子に、瀬川は不思議そうに目を瞬かせては、間を詰めた。 「未散のこと、何でも知っているなんて言ったから、吃驚(びっくり)させちゃった? だけど、未散だって酷いのよ。あたし、親友なのに、何にも話してくれないだもん」 「……な、んで、凪沙ちゃん……」  周東の(かす)れた声は、今にも消え入りそうだ。 「何で、わたしを、(のろ)……」 「あ、勘違いしないで。あたし、未散のこと、大! 大! 大! 大好きよ!」  (さえぎ)ってまで言い切った瀬川は、親友の自慢をした時のように、ぐっと胸を()らした。 「だから、今まで以上に、未散のこと、いーっぱい! 調べたの。とびきり美人で、ピアノも弾けて、とても頭が良くて、皆にも優しくて、悪いことをするのも格好良い、あたしの大親友。小坂が思い上がるのも、浜上みたいな愚劣(ぐれつ)な蝿が(たか)るのも、仕方ないわ。神様に愛されているくらいだもん」 「どういう意味です?」  (いぶか)しく思って神奈が尋ねた。ここで何故、神が登場するのか。 「あたし、未散が掛けた絵馬を見たの」 『小坂威吹が 死にますように』  そう書かれた絵馬を、瀬川は見たと断言する。周東が何か言おうと口を開いたものの、結局、生唾(なまつば)を飲み込んだだけで終わった。否定さえ出て来なかった。代わりのつもりは全くないが、一応神奈が確認しておく。 「周東さんが書いた絵馬で、間違いなかったんですか?」 「未散の文字を、あたしが間違えるはずないでしょ」  予想通り、瀬川はきっぱりと断言した。 「持ち帰ろうとしたけど、未散の神様へのお願いだから、その時はやめたの。でもその後、やっぱり欲しくなって、絵馬掛けを探したけど見付からなかった。きっと、神様が未散のお願いを聞き届けてくれたのね」  威吹の死が何よりの証拠だと、瀬川は満足そうに微笑む。  実際は、持ち帰った浜上が実行したにすぎないのだが、彼女が(あずか)り知らぬことことだ。 「それもあってね、わたし、分かったの」  気恥ずかしそうな声音で、瀬川は少し唇を尖らせる。ちらちらと大好きな親友を(うかが)(さま)は、拗ねた子供のようだった。 「未散って、何でも持っているんだなぁ、って。狡いわ」  震える周東の左の手 を、瀬川は硝子(がらす)細工(ざいく)に触れるするように、そうっと手に取った。(うやうや)しく持ち上げ、両掌(りょうてのひら)全体で優しく包み込んだかと思うと、しっかり握り込んでしまう。  (じょう)が落ちる音か。扉が閉まる音か。あるいは、棺桶の蓋が閉じる音かも知れない。  そんな音を、神奈は聞いたような気がした。  だからね、と瀬川は親友に笑いかける。込み上げる嬉しさを堪えられず、可愛らしい微笑みを顔一杯に広げた彼女は、全くの純真無垢に見える。 「一つくらい、失くしたって、良いでしょ?」  立ち竦んだ周東が、不気味さと恐怖が頂点に達したような悲鳴を上げた。引き裂けそうなくらいに目を剥き、喉の奥から訳の分からない声を発している。笑う両膝から、今にも崩れ落ちそうだ。美しい少女の姿は今や、見る影もない。  まるで、鬼女にでも出くわしたような有り様だった。  瀬川が書いた四十体以上の絵馬は、(がん)()けであり、周東から奪いたいものなのだ。  全ては望まない。何か一つで良いから、完璧な親友から取り上げたい。崇拝のような瀬川の好意は、裏を返せば、絵馬の数だけの嫉妬と恨みだ。  もしかして、と神奈は心中で呟く。  瀬川の告白が威吹への横恋慕のように聞こえたのは、あながち気のせいではないのかも知れない。威吹の存在も、周東から奪いたかったものだったのではないだろうか。瀬川の言う通り、威吹の周東への恋心だけを目の(かたき)にしていたのなら、周東のストーカーの死を願う絵馬もあっても良いはずなのだ。 「ちょっと、あんた!」  神奈を振り返った周東が、金切り声で叫んだ。血走った目が恐怖でギラ付き、乱れ狂う髪を気にも留めない。なりふり構っていられない様子で、荒げた声をぶつける。 「小坂のいとこ! 拝み屋!? 何でも良いわ! わたしを助けなさい!」 「ええぇえ」  げんなりした様子の神奈は面倒臭そうな声で抗議した。しかし周東は耳を貸さず、ヒステリックに(わめ)き立てている。その間も何とか親友の手を振り解こうと、体を捻って腕を振り回し、蹴りを繰り出しと、やたらと暴れるが、瀬川はその手を離さない。 「成仏がどうのって言うなら、呪いもどうにかできるでしょ!? できるわよね!? このわたしが困っているのよ! このままじゃわたし、破滅しちゃう! お願い! 何でも良いから、助けなさい!」  お願いと言うくせに、随分と横柄(おうへい)だ。呆れた神奈が反応せずにいると、唇を噛み締めた周東は考え直したらしい。今度はハの字に眉尻を下げ、困ったような視線を投げると、媚び入るような声を絞り出す。 「わ、わたし、困っているの。だから、ね? 助けてくれるわよね?」 「いやだよ」  何の感情もない四文字が、彼女の懐柔(かいじゅう)を真っ二つに切り捨てた。やれやれ、と神奈はうんざりした顔で嘆息する。 「絵馬を掛けたのに、自分の墓穴(はかあな)を用意しなかった君が悪い。君の墓穴まで用意してくれた親友に、感謝しなよ」  絵馬を掛けた罪悪感に襲われた小坂威吹は、自分の手で自分の墓穴を掘った。そこに横たわる己の(むくろ)に重い土をかけたのは、死後の苦しみだ。同じく絵馬を掛けた周東未散は、人殺しに利用するだけで、自分の墓穴を忘れていた。  だから、彼女はこれから身を()って知ることになる。 「ああ、そうだ」  その場を立ち去ろうとした神奈だったが、今思い付いた様子で、足を止めた。羽織を(ひるがえ)して振り返ると、何食わぬ顔で尋ねる。 「瀬川さん。髪を切ってまで、瀬川さんが叶えたいお願いって、何ですか?」 「言ったら、叶わなくなっちゃうかもしれないでしょ?」 「神様の前ですし、他言はしませんよ。それに、もう叶いそうなんでしょう?」  仕方ないわね、と言いつつも、瀬川はどこか嬉しそうに胸を張った。 「わたしのお願いなんて決まっているじゃない。ずぅーっと、未散のそばにいることよ!」  彼女の『ずっと』は、死ぬまでなのか、死んでからもなのか。   絶望し、抵抗を諦めた周東の手を、無邪気な瀬川は握り締めて、決して離さない。  真っ暗の墓穴の中で、親友の二人はきっと、これからも仲良くあり続けるのだ。深く絡み合った縁は、まかり間違って切れることはないだろう。 「行ってらっしゃい、奈落の底へ」  神奈は別れの挨拶を口にした。立ち去ろうとする気配を察して、呆然としていた周東の顔が一変、必死の形相になる。微笑んでいるつもりらしい唇は下手糞な似顔絵のように歪み切り、泣き縋る目だけが異様に輝いては、死に物狂いで何事か訴えていた。   そんな彼女に、神奈は口元に笑みを浮かべ、(はなむけ)の言葉を送る。 「これからの生き地獄、どうぞ楽しんで」
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