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弐《に》
翌朝。というのは神奈の感覚で、時計の針が示す時間は昼に近い。
窓の少ないマンションの六階では採光が弱く、体内時計も狂いがちだ。専門家が鼻で笑いそうな理屈で、再び目を閉じようとする神奈の鼻孔を、キッチンから漂う出汁の匂いが容赦なく擽った。フライパンで油が弾け、何かを炒めている音も聞こえる。
寝返りを打った神奈だが、結局のそのそと布団から這い出ることにした。ハイネックにパーカーを引っかけただけの格好で、布団を恋しがる体を引き摺り、彷徨う亡霊の如くふらふらとダイニングテーブルの指定席によじ登る。
なけなしの社会性で寝乱れた髪を手櫛で整えるも、死人のような顔色と目の下の色素沈殿で台無しだ。先刻から体のエンジンを掛けているのだが、持ち前の低血圧と昨夜の仕事のせいで、モーターが空回りしている。
これでも大分マシなのだ。普段は起こしに来た者に揺さぶられようが、耳元で喚かれようが、枕元でサンバを踊られようが、死んだように眠り続けるのだから。
「大丈夫ですか? 相変わらず鬼気迫る様子ですね」
神奈がテーブルを覆うように突っ伏していると、手元に湯気を燻らせるマグカップを置かれた。横向けた顔で視線だけを上げれば、黒いエプロンを身に着けた絢緒が立っている。お早うございます、と彼は爽やかながらも気遣わしそうに挨拶した。
「申し訳ありません。もう少しゆっくりして頂きたいのですが、私の予定が……」
柳眉を曇らせた絢緒が皆まで言う前に、神奈は手で押し留めた。そのまま、ゆるゆると手を振る。気にしていないし、そもそも事前にそう聞いていたから起きたのだ。しかし、舌を動かして伝える気力は、まだない。
そんな上司から正確に意思を汲み取った助手は、有り難うございます、と微笑んだ。
「埋め合わせになるか分かりませんが、彼が絵馬を掛けたと思われる高草木稲荷について少し調べてみました」
何とか身体を起こした神奈は、マグカップを引き寄せたところで二度三度と、目を瞬かせた。
絢緒は何故、神社の名前も言いたいことも分かるのか。そんなに自分は分かりやすい顔だっただろうか、と神奈は内心、首を傾げた。
「顔や声に出なくとも分かります。私は神奈の助手ですから」
「………」
取り分け皿を片手に、麗しい笑顔で宣う助手。その背後では、キラキラと沢山の星が輝いている気がする。
助手って、凄い。そして、何か怖い。
神奈は疲れたような目で、カップの中身を一口啜った。
カップの中は、アッサムと豆乳の温かいジンジャーソイティー だった。温めた豆乳と乾燥した生姜には体を温める効果があり、絢緒のお勧めだそうだ。
「話を戻しまして、小坂威吹さんの話から高草木稲荷では、と思ったのです。縁切神社として有名ですから。今はネットもありますので、特にホラーやスピリチュアル関係の情報は手に入りやすいのです」
神奈の先刻の疑問にも、絢緒は正確な回答をくれた。世紀単位の齢の彼が、現代の情報通信技術をそれなりに有効活用しているとは、何とも不思議だ。
高草木稲荷は、縁切神社で有名な神社の一つだった。
お稲荷さんとして身近な稲荷神社。そこに祀られている稲荷神は狐、ではなく、保食神や大宜都比売などの、穀物や食物を司る神々だ。
稲荷神とは一柱の神なのではなく、稲荷神という役職に、様々な食物の神が就いているといえば分かりやすいだろうか。
稲荷神社の総本宮である伏見稲荷大社では、主祭神に宇迦之御魂大神を祀っている。
古事記に登場する宇迦之御魂神は、建速須佐之男命と神大一比売との間に生まれた女神だ。日本書記での表記は倉稲魂命とされ、伊弉諾尊と伊弉冉命が飢えに苦しんだ際の神産みで誕生したとある。両方に共通するウカとは、穀物や食物のことを意味する。
さて、この稲荷神を氏神として稲荷山――当時は伊奈利山――で祀っていたのが、当時の京都で勢力を誇った古代豪族、秦氏だった。彼らは元々、中国大陸や朝鮮半島から日本に移住してきた渡来系氏族で、日本に渡って来ただけはある航海術は勿論、農耕や養蚕、機織り、土木にまで技術を発揮。政治的後ろ盾も得ると、秦氏は地方に領地を拡大し、それにともなって、伏見稲荷大社の分社が全国の縁の地に増えていったのだ。
商人の勢いが強くなった室町時代になると、稲荷神は農耕神の他に、商売繁昌の性格も持ち合わせるようになる。そして、江戸の町の稲荷信仰を持つ商人が成功したことで、庶民も稲荷神を祀るようになった。
その結果、『火事、喧嘩、伊瀬屋、稲荷に犬の糞』といわれるほど、江戸時代には稲荷神社は溢れ返り、稲荷神社は五穀豊穣や農耕、商業にご利益がある神となった。
ちなみに稲荷は、「稲成り・生り」が元だという説がある。
「高草木稲荷の周辺は、平安の末期頃から絹織物の産地で、近世の頃には織物業が発達したそうです。農耕というより、商業の性質が強い稲荷ですね。ああ、御祭神は、倉庫の『倉』と書く方の倉稲魂命でした。あ、こら!」
絢緒のお叱りも何のその。相槌のどさくさに紛れて、神奈は一番近い小鉢からほうれん草の胡麻和えを摘まんだ。口に放り込めば、ほど良い甘じょっぱさが癖になる。
「織物業が盛んになるにつれて、生計を立てるべく、年頃の女性達が続々と地方から出て来ました」
苦笑混じりに嘆息した後、絢緒は詳細な説明を続けた。
「彼女達を娶ろうと、男性達も追って来て、結果、増加するのが、男女間の揉め事です。娯楽も少なかった当時、男性の関心は飲酒、女性関係、博打の、いわゆる『呑む、買う、打つ』です。女性の権利はないも同然の時代、泣き寝入りするしかなかった女性達は、相手と縁が切れるよう、高草木稲荷へ神頼みしました。それを発端に、時代が下るにつれて、病気や怪我、事故は勿論、特に男女の縁切りを謳う神社になったそうです」
「土地柄、織物に関わる稲荷神として馴染んでいただけに、祈願する女性達には身近だったんだろうね。まして、高草木稲荷を含め、豊穣神の多くは女性神だし」
漸く思考と舌が回り始めた神奈が、声に出してそう付け加えた。
そこに、風呂上がりの良い匂いをさせた陣郎が頭からタオルを被って登場した。毎朝一時間以上のロードワークが日課の彼からすれば、神奈はとんでもない寝坊助に違いない。
遅い朝餉がテーブルに並び、神奈も助手二人も席に着いたところで、両手を合わせて挨拶する。途端、箸が慌しく動き回り、皿に擦れる音が響く。家では基本、こうして三人が揃って食卓を囲むのだ。
料理番の絢緒の腕前は確かだが、和風洋風中華の他にエスニック、良く分からない国籍料理やら創作料理やらに手を出す節操なし。ゆえに、献立に統一感がない。そして食事は勿論、甘味も守備範囲だった。
今日も今日とて、鼻も目も楽しませ、腹の虫が催促する献立だ。ほかほかの白米は言わずもがな。しっかり砂抜きをされた浅蜊の味噌汁。しかし、頭は覚醒しても、胃袋は半分も起きていない神奈は、浅蜊と生姜のお粥である。ただの粥と侮るなかれ。とろみのついた米に浅蜊の旨味が染み出して、食べているうちに優しく胃を温めるのだ。
今日の主菜は西の春告げ魚、鰆だ。さっと焼いた舞茸も添えた鰆の山椒焼きは、醤油と味醂、酒のタレだけでも白米がすすむのだが、そこにぴりりと爽快な山椒の香りが食欲に追い打ちをかけてくる。くるくると巻かれた出汁巻き卵は分厚く、一口齧れば、じゅわり、と出汁が口の中に広がる。人参、竹輪、椎茸とおからを炒めて酒を振り、そこに砂糖、醤油、味醂、最後に葱を加え、煮立たせてできた卯の花の炒り煮。神奈が摘まみ食い、もとい味見したほうれん草の胡麻和えもある。
ただし、助手達の皿はどれも二人前以上の量だ。丼が茶碗代わりの陣郎は、手の大きさを最大に利用しておかずを鷲掴み。彼ほどではないにしろ、同じく人間に化けているせいか、絢緒も良く食べる。瞬く間に減る皿の上は、最後にはまるで盛り付ける前のように、綺麗さっぱり何もなくなった。
ぱちり、と両手を合わせ、ご馳走様の挨拶をした後、神奈はほう、と満足そうに吐息を零した。
「どんな夜叉羅刹も、絢緒の料理で即刻改心間違いなしだね」
「最高の賛辞です。今、お茶を用意しましょう」
にこり、と絢緒は笑って称賛を受け取ると、食後のお茶の支度に席を立つ。満足そうに腹を撫でる陣郎が尋ねた。
「そう言えば、お前ら。さっき何の話をしていたんだ? 稲荷寿司がどうとか聞こえたんだが」
「君、まだ食べるつもりか」
うんざりした顔で神奈が呟く。あれだけの量を平らげておきながら、助手は下っ腹も出ていない。質量保存の法則はどうした。
「稲荷寿司ではなく、高草木稲荷です」
白磁のポットを傾けながら、絢緒が簡潔に答える。神奈の前に置かれたマグカップから、玄米を炒った香ばしい香りが立ち昇っていた。
「小坂威吹さんの言っていた神社が高草木稲荷だと分かったので、それについて報告を。宮司も常駐していない神社らしく、氏子総代もまだいない時間でしたから、大まかな成り立ちくらいですが」
「何だ、お前。直接行って来たのか」
「冷やかし程度ですが、今朝」
その言葉に、マグカップを受け取った陣郎が金の目を丸める。これには神奈も驚いた。
「道理で詳しいと思ったよ。何だ、起こしてくれれば、いや、起きないかも知れないけど、とにかく、ボクも行きたかったのに」
「神奈には休んで頂きたかったのです」
唇を尖らせて抗議する神奈に向かって、絢緒がやんわりと牽制した。
「絵馬掛けもざっと拝見しましたが、病気や酒癖との縁切りから、是が非でも死んで欲しいという絵馬まで、様々でした。しかし、小坂威吹さんが書いた絵馬は残念ながら発見に至らず。せめて、筆跡が分かれば良かったのですが、何しろ凄まじい数でしたし、掛けた本人の氏名もない絵馬が殆どで、名前があっても呪いたい相手のものでした」
「ま、当然だよね。後から絵馬を掛けに来た人間が、身内や知り合い、ましてや呪いたい相手本人だったりしたら」
気まずいどころじゃない、と神奈は苦笑する。
「その代わりと申しますか、こんなものを見付けてしまいました」
にっこりと笑った絢緒から、ジャーン! と効果音が聞こえそうだ。長い指で端を摘まんで見せたのは、一枚の板。絵馬だ。
一目で分かったのは、形もさることながら、板の中央に赤い鳥居、その下に二匹の白い狐が並んでいる絵があったからだ。
「小坂威吹さんを、呪った絵馬です」
目的語を強調した絢緒の台詞に、は? と神奈と陣郎から、異口同音の疑問符が出る。
「威吹君を、呪った?」
「あいつが、じゃなくてか?」
「はい、そうです」
頷く絢緒は、そこはかとなく自慢そうな雰囲気だ。彼は絵馬を引っ繰り返し、二人にも祈願内容が見えるよう、テーブルの上に差し出す。覗き込もうとした神奈と陣郎だったが、慌てて仰け反った。
「いやいやいや! ちょっと待とうか! 君、神社にあった他人の絵馬を、無断で拝借して来たの!?」
「持ち帰って来るなよ、そんなもん! ただの板っ切れだって、こっちは気分が悪ィぞ!」
「呪われた人間が死んでいる時点で、ある意味、呪いは成就していますし、絵馬なんて用無しでしょう」
頗る不服そうに、絢緒がキッチンに引っ込む。不貞腐れたのではなく、お茶請けを取りに行っただけらしい。残された二人は、結局好奇心には勝てず、神奈が仕方なく絵馬を手に取り、その横から陣郎が亀のように首を伸ばした。
上の両角を切り落とした、横に伸びた五角形の板。神社で見かけるものと同じく、吊るせるよう、赤い紐が一つの穴に通されている。雨風に晒されて煤けているものの、そう古いものではないらしく、黒の油性マジックは色褪せていない。祈願内容は、短く区切られて、縦二行に綴られていた。
『小坂威吹が 死にますように』
祈願者の名前はない。簡潔な内容だけに、何とも毒々しい。大きさの揃った文字は読みやすく、一字一字に丸みを帯びた特徴的な癖がある。
「そんなに小坂威吹が気に食わねぇってんなら、文句を言うなりぶん殴るなりすりゃあ良いじゃねぇか」
「もうちょい平和的友好的な解決法は、君にはないのか。いや、この絵馬がそうかと聞かれると、多分違うけど」
不思議そうな陣郎に、神奈はじっとりした目になる。
直情径行な彼らしいが、人間社会でやたらに手を出せば、下手したら豚箱行きだ。
「それに、俺にはイマイチ分からねぇな。絵馬っつったって、単なる板っ切れだぞ。それだけで、誰かを呪い殺せるのか? 大体、本当に呪いなんてあるのかよ」
「じゃあ聞くけど、そもそも呪いって何?」
「何、って……」
逆に神奈に問われて、陣郎が押し黙る。眉間に皺を寄せて、更に凶悪な顔だ。
人の生き方が十人十色であるように、長い年月を経てきた妖の絢緒と陣郎にしも、在り方が異なれば生き方も異なる。人間社会に溶け込み、その知恵知識を吸収してきた絢緒に比べて、脳味噌を働かせるより脊髄反射の陣郎は、複雑な話になってくると、こうして神奈や絢緒も講義してもらうのもしばしばだった。尤も、本当に陣郎の頭に入っているのかは、本人のみにしか分からないが。
「私が思い付くのは、藁人形と五寸釘を使った丑の刻参りでしょうか」
横から具体例で助け舟を出したのは、絢緒だった。
「能の演目『鉄輪』、『源平盛衰記』だったか『平家物語』だったか、とにかく『剣巻』にありました。尤も、丑の刻参りは呪いというより、呪うための行動や方法ですが」
彼の手には、丸々とした苺大福がいくつも乗る大皿があった。白い薄化粧をして、もっちりした餅にくるまれた餡は、餡子か白餡か、はたまた抹茶餡か。天辺からうっすら透けている苺の赤が、慎ましやかで可愛らしい。
狙い定めた陣郎がすかさず手を伸ばしたが、絢緒のしなやかな手が電光石火の速さで叩き落とした。
「ぎゃんッ!」
「卑しい駄犬ですね。神奈は満腹でしょうから、後で召し上がって下さい。次回は抹茶餡も作りますから、是非感想を」
骨が砕けたような音を聞いたのは、神奈の気のせいだろうか。おかしな方向に曲がった手を、陣郎が腕ごと抱き込んでいる。二の腕の筋まで痛めたらしい。一方、神奈を気遣う容赦ない仕置き人は、どこからどう見ても完璧な好青年。騙し絵でも見ている気がする神奈である。
先程の話ですが、と絢緒が席に着く。苺大福の皿の底が、テーブルに触れるや否や、今度こそ陣郎が苺大福を掠め取った。それに呆れの一瞥を投げてから、絢緒が続ける。
「人を呪うには、呪うための行動や方法の他に、恨み辛みの原動力も必要です。誰かを呪わしく思う気持ちが、行動を起こさせるのですから」
「その通り。怨念や執着の心と、呪うための行動。この二つを合わせて、呪いだ。聞いてるかな、陣郎?」
神奈が指名するも、案の定、助手の返事はない。苺大福に齧り付いた陣郎は、眉間の皺が消えるくらいに大層ご満悦だ。
「丑の刻参りと言えばボク、現場を見たことがあるんだけどさ」
神奈は世間話のつもりだったが、ぎょっと目を剥いたのは絢緒だ。咀嚼中の陣郎は、代わりにじっとりした視線を送っている。口に含んだまま話そうものなら、目の前の同僚が、今度は咽喉を狙うだろう。
「白装束を着た女性が、顔を白粉で真っ白にして、頭に蝋燭を立てたガスコンロの五徳を被っていたっけ。律儀に一本歯の下駄を履いて、胸には鏡をぶら下げて、腰には何故か彫刻刀一式、口に櫛を咥えて、呪う相手に見立てた藁人形を、神社の御神木にガッツンガッツン五寸釘を打ち付けていたな。あれ、夜中の一時から三時までの二時間を、七日間やるんだってね。面倒臭さが成就の難易度を示すと錯覚して、手間がかかればそれだけ燃えるのかな。とにかく、天晴な根性だった」
当時の神奈は、その精神力に正直、感嘆したものだ。
金槌を握り慣れた女性ではなかったらしく、初日は的を外して、手も一緒に打ち付けていた。罵詈雑言の中に打ち損じた悲鳴と半ベソの声が混ざっていたのを、こっそり隠れていた神奈は聞いている。ある夜は、雨で踏ん張りが効かなかったようで、金槌を振り下ろそうとした女性は派手にすっ転んでいた。いそいそと履き替えたスニーカーには、彼女の決心の堅さが伺えた。別の夜には、警邏中の警察官に見付かりそうになって、見ている神奈がハラハラした。そして三週間後、丑の刻参りをやり切った彼女が、無言で拳を高々と掲げた時、見守っていた神奈は取り敢えず、小さく拍手を送っておいたのを覚えている。
しかし今でも、心の底から思うのだ。
そのやる気と根性、もっと別の方向に向けられなかったのか。
彼女の反骨精神なら、きっとどんな道でも切り拓けたに違いない。
「だけどさ、ボク、申し訳ないことしちゃった。呪っているところを誰かに見られると、呪いが呪った人に跳ね返って来るって話なんだよ。あの人、毎日頑張っていたのに。しかも、目撃者も殺さなくちゃいけないのに、ボク、生きているし」
「夏休みの朝顔観察日記か。呪った奴も見上げた性根だが、お前も大概イイ性格していやがるよな」
「そんな話、私は全く存じ上げていませんが。危ないことに首を突っ込まないで下さいと、常日頃から散々、申し上げていますのに」
呆れ果て、早速愚痴になっている助手達に、いけしゃあしゃあと神奈は軽く肩を竦めた。反省どころか、悪びれる様子もない。
「話を戻すけど、ボク達が知る丑の刻参りの形になったのは、江戸の元禄の頃。有名な原型があるんだよ。ねえ、絢緒、『剣巻』の大筋、答えられる?」
「はい、『宇治の橋姫』の話ですね」
簡潔に答えた絢緒だったが、あからさまに不服そうだ。神奈が話を逸らしたことを責めているのだ。
「嵯峨天皇の時代、嫉妬深いある公卿の姫君が、恋敵を殺すために鬼にして欲しいと、貴船神社に祈願しました。貴船大明神が告げた方法を実行した結果、彼女は生きながら鬼となります。これが嫉妬に狂う鬼、『宇治の橋姫』の誕生です。鬼は恋敵やその縁者を手にかけ、とうとう誰彼構わず殺すようになった、という話です」
「昔、どこかで聞いたな」
坊主が言っていたような、と陣郎は難しい顔で、苺大福を口に放り込む。長く生きている分、思い出すのも一苦労だ。
「この話で注目すべきは、姫が鬼になった方法だ。結構ぶっ飛んでいて、吃驚するよ」
神奈は歯を見せて悪戯っぽく笑う。
「まず長い髪を五つに分けて、松脂を塗り固めた角を作る。顔には朱、体には鉛丹っていう赤い顔料で全身を真っ赤にする。それから、逆さまにした鉄輪の脚に、火をつけた松明を刺して頭に乗せて、両端を燃やした松明を口にも咥える。こんな格好の女性が、今みたいな灯りなんてない真っ暗な夜、大通りを爆走してみなよ」
「新しい妖ですね」
「化け物じゃねぇか」
絢緒がにこやかに頷き、陣郎が唖然とする。現役バリバリの妖二人にこう言われて、さぞ姫も変身した甲斐があっただろう。
「ま、当時の食事情からして、無理がある話だよ。深窓のお姫様が突然走ろうとすれば、二、三歩目で骨、ボッキリだ。ま、それは置いておいて」
神奈は、『前へならえ』をするように小さく両手を前に突き出すと、右に移動させるジェスチャーをした。
「話の中では案の定、彼女を見ただけで、数人がショック死。そんなことはお構いなしに、お姫様は宇治川で二十一日間の精進潔斎を続け、結果、無事に鬼へとメタモルフォーゼ。後は絢緒の言った通り」
「あぁん?」
三つ目の苺大福に手を伸ばして、陣郎が不可解そうに唸った。
「丑の刻参りの原型なんだろ? 藁人形も五寸釘も、丑の刻だって出て来ねぇぞ。しかも、恋敵が死ぬよう祈願するんじゃなくて、鬼になって自分で殺しに行くのかよ。なかなか骨のある姫さんだったんだな。あ、でも折れやすいのか」
「足の細い小型犬かな」
呆れ顔でツッコミを入れた神奈は、とにかく、と続ける。
「この話は、恋敵を殺すべく鬼になった姫の、『鬼になる方法』だ。そもそも、丑の刻参りは、神仏への祈願なんだよ。初詣や御百度参りと同じさ。そして勿論、この絵馬も」
神奈の人差し指が、絵馬の角を軽く弾いた。
「五寸釘や藁人形は、陰陽道の影響だ。絢緒、鬼はその後、どうなった?」
はい、と答えた絢緒に、言い淀む素振りはない。
「その二百年ほど後、この鬼は、源頼光の四天王の一人、渡辺綱に一条堀川の戻り橋で腕を斬り落とされます。鬼は愛宕山に逃げ、渡辺綱から相談された源頼光によって、鬼の腕は安倍晴明に引き渡されました。この人物は、陰陽師として現代でも有名です。彼は、渡辺綱に七日間謹慎するよう伝え、鬼の腕を仁王経で封印しました」
そこで陣郎が、ああ! と声を上げた。右手には、四つ目の苺大福だ。
「その名前なら、聞いたことがあるぞ。確か、西の都にいたよな?」
「平安の頃ですね。もう少し前の時代に活躍していたのは、呪禁師というそうです。名前が変わっただけで、中身は大体同じでしょう。現代の政治家のように」
「否定はできないけどさ」
絢緒の辛辣さに、神奈は苦笑するしかない。
「彼らの得意分野の一つが呪詛、つまり呪いだ。陰陽師が呪術を行う時、敵に見立てた形代やヒトガタを使うけど、これが藁人形の始まり。陰陽道では、人が鬼になったり、鬼が出たりする時間は丑の刻、今の午前一時から午後三時頃だと考えられた。丑寅の方角は、鬼がやって来るとされた鬼門でもある。五寸釘は、素人が神仏の社や像、御神木に釘を打ち付ける祈願方法が元だね。あ、素人っていうのは、庶民だよ」
「昔の人間の方が信心深いものだと思っていました。なかなか過激だったのですね」
絢緒が驚いて柳眉を上げた。それから、顎に手を当てて、少し考える風情を見せる。
「いえ、そうせざるを得なかったのでしょうか。呪いのプロに呪殺を頼もうとすれば、それ相応の謝礼が必要です。貴族には容易でも、庶民は難しいでしょう。だからこそ、庶民本人が必死で神仏に祈願し、それでも呪いが叶わなかった時には、そんな暴挙に出たのではありませんか?」
「その通り」
神奈は芝居がかかった様子で、指を弾いた。
「その当時、効果がなかった時、祈願した神仏さえも恨んで、責め立てて、何としても呪いを成就させようとした。釘を打ち込むという脅迫でね。この行動が陰陽道と結び付いて、今の丑の刻参りの出来上がりさ」
「他力本願で縋っておいて、神や仏を相手に脅迫かよ。罰当たりも良いところだな」
頬杖をつく陣郎は、鼻に皺を寄せていた。感想はさておき、と絢緒は、自分のカップに口を付ける。
「しかし、ただの人間に代わって神仏が殺人を犯すとは思えません。呪いで、実際に誰かを害せることはないのでは?」
「いや、条件が揃えば成功するよ」
驚く助手達をよそに、即答した神奈はそうだな、と考えるように茶を啜っった。
「誰にも知られずに、AさんがBさんを呪った、としよう。Aさん自身以外、この行動を知る人間はいない。その一方で、Bさんには様々な不幸が起こる。まあ、不幸といっても、紙で指を切った、風邪を引いた、と些細(ささい)なことから、大事になる事故、人間関係の揉め事と様々だ。そのうちのいくつかは、Aさんの画策かも知れない。Aさんの目には、Bさんに呪いの効果があったように見える。もしBさんが、被害妄想を持ちやすかったり、信心深かったりする性格なら、誰かに恨まれている、呪われている、と言い出すかも知れない」
「けどよ、実際、Aの呪いがBに影響した訳じゃねぇだろ」
はあ、と陣郎が、疑問だか相槌だか分からない声を漏らした。そんな助手に対して、神奈は黒板の前に立つ教師のような手振りで、噛み砕いた説明をする。
「じゃあ例えば、誰かがあなたを呪っていますぞよ! なーんて、巫女さんかお坊さんか、とにかくそれっぽい人が、君に親切ぶって教えてくれたとしよう。真偽は別にして、陣郎は気にするだろう?」
「あ? 当然だろ」
尋ねた方が拍子抜けするほど、陣郎の答えに逡巡はない。
「俺は神奈の番犬だ。そいつを信じる訳じゃねぇが、警戒するに決まっているだろ。本当に俺だけが狙われているとは、限らねぇんだから」
「君、冥府の神ハデスが地獄の番犬にスカウトしても、絶対断ってくれよ」
二、三度、目を瞬かせた後、神奈は擽ったそうに笑った。しかし、それは忽ち苦笑に変わる。
「でもね、人間の社会では、制服や装束は時に、身分証明なんだ。本職ではなくても、それらしい格好で、それらしいことを言われたら、自分は呪われている、って思っちゃう人も多いんだ」
「実際、業者や職員を装った押し入り強盗は多いです」
マンションの管理会社から知らせがありました、と絢緒が頷く。彼は、神奈のマグカップが空になったのを見ると、ティーコーゼを外して、ティーポットを手に取った。
「陣郎の言った通り、Aさんの行動とBさんの不幸は独立しています。呪いを疑うか、お祓いのつもりか、Bさんが宗教関係者の元に訪れて、もし呪いだと言われたら、信じてしまうかも知れません。そこまでいかなくても、良い気はしません。呪いの成就には、呪いだと断定する人間、取り分け、宗教に関する人物が必要なのですね」
「そう。勿論、同じ状況でも、全く気にしない人もいる。一方、不安で不眠になったり、家から出るのが怖くなったりする人もいる。ずっと気を張っているから、心身共に疲労して来るし、疑心暗鬼にもなる。ああ、有り難う」
神奈が受け取ったマグカップからは、ほわり、と豊かな香りが立ち上っている。つまり、と、絢緒は難しい顔だ。
「要は、呪いの成就には、呪われた人間の思い込みや自己暗示が必須なのですね。人間の体が、どこまで繊細なのかは分かりませんが、体調不良くらいにはなりそうです」
「そうかぁ? 大体、現代は昔ほど、寺や神社に行かないんだろ?」
懐疑的な顔で、陣郎は五つ目の苺大福に手を伸ばす。
「それこそ、盆暮れ正月、冠婚葬祭くらいだ。滅多に会わない坊主が言うことなんか、簡単に信じるか?」
「確かに。呪いについて、呪術者や宗教関係者が社会的に信頼されていたのは、ずっと昔。だったら、自分が信頼している人間に言われれたら、どう思うかな」
そう付け加えて、神奈はマグカップに口を付ける。
「数十年来の親友、信頼する上司や同僚に、最近不調だと相談した時、慰められ、励まされる中、誰かに恨まれているのでは、呪われているのでは、と囁かれたら」
眉間の皺を山脈のようにして、陣郎はきっぱりと言い切った。
「気分は、最ッ悪だな」
「はい、呪いの完成」
一丁上がり、とばかりに、神奈は明るく手を打った。呆気に取られる陣郎をよそに、絢緒が成程、と呟いた。
「深い繋がりにある人間の発言の方が、信じられる時もあります」
「何も、人間じゃなくても良いんだよ。仮に、呪われたBさんが、人を人とも思わない傲慢な人だったとする。周りは敵だらけ。恨みまくって、近所の神社に藁人形を打ち込んだ奴がいる、黒魔術をやった奴もいる、なぁーんて話も出るくらいだ。そうすると、彼女にとっての有象無の人達が、悪意を持ってそういう噂を流し始める。当然さ。彼らは、彼女の被害者という共通意識を持つ塊なんだから。誹謗中傷じゃないから、罪悪感もない。今じゃ、メールもネットもあって、噂の拡散は光の速さだ。伝聞も断定になっていく。一人二人に噛み付かれても平気なBさんでも、四面楚歌なら、少しは落ち込むんじゃない?」
「実際、丑の刻参りが行われた神社仏閣は、市井の交流の場でした。誰が呪われたのか、話はあっという間に広まったでしょう。人の口に戸を立てられぬ、とも言いますし」
ところで、と絢緒が、赤味がかかった目を細めて、にっこりと笑った。爽やかな声音が、神奈を嫌な予感に誘う。
「人や噂を介さずに、例えば直接藁人形を送り付けても、呪いになるのでしょうか?」
「それは脅迫だ」
すっぱり即答した神奈が、じろり、と音がしそうなほど絢緒を睨み付けた。
「刑法二二二条の脅迫罪により、手が後ろに回るよ。君、まさか誰かを呪うつもりじゃないだろうね?」
しかし、尋ね返された助手は、非常に麗しい笑顔で答える。
「後学のためです。私も本人に、直接、じっくりと、問い質すタイプですから」
だよな、と陣郎も頷いているが、二人の実際の行動は大きく違うだろう。
絢緒の台詞の部分部分が強調されていた上、『じっくり』が『じわじわ』に聞こえたのは、神奈の気のせいだろうか。そうだと思いたい。
「お前の話だと、呪いだって教える奴は、悪い奴もいそうだよな」
陣郎の眉間が、深い皺を刻んでいる。長く生きている分、達観しているのかと思えば、そうでもないらしい。
「実は呪った奴なんかいもしねぇのに、そう言い出すとか。呪いをでっち上げて、別の奴に濡れ衣を着せるとか。祓ってやるから金を寄越せ、って言やあ、今なら詐欺じゃねぇか」
「現代の霊感商法にさえあるのですから、当然昔にもあったでしょう。実際、謀反だと難癖を付けられて、処刑された人間もいました」
嘆息する絢緒は、まるで見たことがあるような口振りだ。
「陰陽師は当時の国家公務員だったくらいです。彼らの社会的立場は、政治に関われるほど強固で、信頼も厚かったでしょう。陰陽師の本業は別ですが、どこの誰がどんな理由で呪い、その呪い方や払い方まで分かったとか。良からぬことに手を染めていた人間もいたでしょう」
爽やかな笑顔で容赦のない助手に、神奈は苦く笑う。
「確かに呪いは、呪われた人の反応は当然、呪いだと指摘する人に寄るところも大きい。呪いのせいでこれから病気になる、って断言されたら本当に病みそうだけど、生活環境を改善して、養生した方が良い、って提案されれば、素直に受け入れそうだろう? とどのつまり、その人の言い方一つさ」
「呪いは分かったけどよ」
多分、と付け加えつつ、皿に伸びた陣郎の手が、また一つ苺大福を攫っていく。大食らいのこの助手は、後いくつ食べれば満足するのか。
「呪いで不調になることはあっても、人が死ぬことはねぇんだよな? 単なる祈願なんだから」
「ないこともない」
「どっちだよ」
しれっと答える神奈にツッコミを入れつつ、陣郎の金の瞳が話を催促する。存外、彼は好奇心旺盛なのだ。
「統計の話さ。例えば、千人が千人を、重複しないよう呪った。一年後、千人の中で事故死が一人、病死が二人いたけど、残りの九百九十七人は生きている。結果だけ見れば、三人が呪って、三人が呪い殺された。けど、効果のなかった九百九十七人は、呪ったことは勿論、そんなことをした人間も、いなかったことになる。だって、呪いの成就には、口外するのも、目撃されるのも駄目なんだから」
「そんな人数でやりゃあ、病死も事故死もいるだろうよ。獄卒の迎え間近のジジババもいるんだろうしな」
つまらねぇ、と陣郎は不満そうだ。そこに、何か思い付いたらしい絢緒が口を開く。
「では、呪っているところを見られると効果はない、あるいは、呪いが跳ね返って来る、という話にも理由があるのですね」
そう、と神奈は頷く。
「誰かを呪おうと実行する人間なんて、大抵理性的じゃない。呪う側の内心は嫉妬や憎悪、憤怒で一杯だ。そんなのを抱えて、不健全な方法で発散しようとするんだから、心にも体にもストレスがかかる。日常生活に支障が出て来て、そこで初めて、思い当たるんだよ。呪いが自分に返って来た、ってね。これはボクの推測だけど、誰かにバレたから効果がないんじゃなくて、効果がないからバレた、ってことじゃないかな」
どういうことでしょう、と絢緒が先を促した。
「全員が全員、さっきのBさんのように不幸があったり、不幸を気にする気質だったり、あるいは噂があったり。呪いだと判断する人だって、都合良く存在するとは限らない。呪いの効果が出ないと、呪っていた側はどう思う?」
「呪いの効果がなかったとか、まだ効果がないとか、そう思うのではないでしょうか」
「やり方が悪かった、とかか?」
陣郎も一緒になって首を捻っている。
「飽きたり、馬鹿馬鹿しくなったりして、途中でやめるかも知れねぇな」
「そうやって、効果がなかった理由を探すんだよ。その一つが、バレた、じゃないかな。納得しやすいし」
伸ばした神奈の人差し指が、小坂威吹の名前が書かれた絵馬を弾いた。
「威吹君は、絵馬を掛けたと言っていた」
この絵馬のように、彼も誰かを呪おうと、呪詛の言葉を書き付けて、絵馬を掛けた。
「誰かを呪い、それが跳ね返ったせいで自分は死んだと、彼は思い込んでいる節がある。なら、彼の書いた絵馬について、調べる必要があるよ」
彼は誰をどんな理由で恨み、絵馬を掛けたのか。呪われた人間は、それを知っていたのか。その上で、何か不都合が起きていないのか。起こっているなら、そちらの手立ても考える必要があるだろう。
そして神奈には、威吹があの公園にいる理由が気になっていた。もしかしたら、成仏の手掛かりになるかも知れない。
「難しいことは分からねぇけどよ」
顔を顰めた陣郎は、脳味噌を使ったから腹が減った、とまた苺大福に手を伸ばしている。
「お前の話じゃ、殺すことは無理でも、絵馬で人を呪うことはできるんだろ? あいつ、気にしていたじゃねぇか。『人を呪わば穴二つ』って奴」
公園で神奈が威吹に言った台詞だ。誰かを呪い殺そうとすれば、その報いを受けることになって、結果葬られる墓は二つでき上がるという故事だ。
「それがこれじゃねぇのか?」
鋭い金の瞳が目の前の絵馬を示した。威吹は誰かに呪い返されたのではないか、と言いたいのだ。
「威吹君の絵馬を見付けるまでは何とも」
明言を避けて、神奈は茶を啜った。それから両手でマグカップを持ち替える。
「その故事には、別の解釈もある。返って来るのは報いや呪いではなく、罪悪感だという話だよ」
視線を落としたマグカップの中で、小さな波紋が揺れていた。
「誰かを呪った。良心が残っている人間なら、その罪悪感や後ろめたさが呪った側を苦しめる。呪う側も、呪った相手と一緒に地獄に落ちる覚悟で呪わなきゃ。打ち付けている藁人形は、自分自身かも知れないんだ」
小坂威吹は自分で行った呪いに苦しんでいる。いっそのこと、良心の呵責を抱かなければ、死して尚、この世に留まることにはならなかったのかも知れない。
公園に一人きりだった小坂威吹を、神奈は思い出す。
理不尽を嘆き、当り散らしていた様は、動揺と焦燥、そして恐怖の裏返しに見えて仕方なかった。
「気になっていたのですが」
そう切り出した絢緒は、まるで夕飯の献立に悩むような顔付きだ。
「小坂威吹さんは、呪いを頭から信じる性格ではないように見受けられました。縁切神社について、誰かに聞いたとも言っていました。あの公園にいる理由と、何か関係があるのでしょうか」
「それに、絵馬に名前を書かれるほど、彼は誰かに恨まれていたのかな」
そういうタイプには思えなかったけど、と神奈は小首を傾げた。
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