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凌木絢緒は柳屋の助手の他に、茶道の講師として、いくつかの学校や教室を出入りしている。本日も、茶道教室を自宅に構える宗匠で、薄茶の教室の一つを受け持つことになっていた。
茶の湯は静寂を愉しむ。
ただただ無音、という意味ではない。絹に墨の雫を垂らした時、その白さが目を引くように、敢えて静謐の中で微かな音を響かせることで、より一層静けさを際立たせる。勿論、むやみに音を立てることなどは以ての外。静寂を味わうがゆえに、必要不可欠な音を立てる。そして、耳を、心を澄ませるのだ。
さらり、と流れるように長い指で柄杓を取った絢緒が、優しく湯を注ぐと、こぽこぽ、と茶碗が何とも満足そうな音を立てた。
そっと、しかししっかりと左手を茶碗に添えたら、揃えた指先で摘まむようにして茶筅を持つと、茶碗の底に軽く押し当てて、三回ほど静かに振るう。抹茶と湯を馴染ませるように、ゆっくりと、だ。その後は底から少しだけ離し、柳のようにしなやかにした手首で、今度は湯の温度が下がらないように、茶筅を軽やかに振る。穂で抹茶と湯を掻き立てることで生まれる、しっとりと濡れた肌理細かい音が、何とも耳に心地良い。
仕上げに、抹茶の中で、「の」の字を書くように茶筅を動かすと、茶碗から引き上げる。そして慎ましやかに、茶碗を畳の縁外へと差し出した。
「一度切ります。ここまでが、お茶を点てるまでの流れのおさらいです」
質問はありますか、と絢緒は畳に指を突いて体の向きを変えると、四人の教え子と向き合った。妙に明るい表情で大きく頷く者や難しい顔をする者、力なく首を振る者などと、反応は様々だ。
「質問ではありませんが、録画かメモをしたいです」
失礼だと承知していますが、と悔しそうに細面を顰めたのは、三十代前半の社会人男性だった。
しっかり糊の利いたシャツに紺のネクタイを締め、無地のグレーのスーツ姿。フレックスタイムを導入している勤め先で、しばしば平日の昼に稽古をすることも多い。
その隣で、気持ちは分かります、と苦笑するのは初老の男性だ。目尻に小さな皺が、柔和な顔立ちを更に穏やかに感じさせた。後ろに流した髪はたっぷりしているのに、霜のようで、そのせいか実年齢より老けて見える。
この教え子は、自分より三分の一ほどしか生きていないと思っている絢緒を、先生と呼べることを新鮮に思っているらしい。
「どこが難しかったり、分からなかったりしたでしょうか?」
絢緒は、頭の中で先刻までの流れを反芻する。
学ぶことは真似ること。まずは手本を見せた方が想像しやすいと、常々思ってはいるのだが、そこは個人の差だ。一応講師の肩書はあるものの、人に教えるというのは、実に一筋縄ではいかない。
いえ、そうではなく、と初老の教え子が、右の掌を見せて押し留める。
「流れは大凡分かりましたが、凌木先生の所作は瑞々しいというか、思わず見入ってしまうんです。予習も復習もする方なら、余裕かも知れませんが」
そう言って、彼がちらりと一瞥したのは、隣の教え子だ。
「まあ、無茶を言わないで下さいな」
悩ましそうに唇から吐息を漏らしたのは、薄藤の鮫小紋に、七宝を描いた銀鼠色の名古屋帯を合わせた女性。婀娜っぽい雰囲気の彼女だが、書籍を読み込むのは当たり前、茶道のDVDを購入したり稽古前後の絢緒を掴まえては質問したり、とかなり勉強熱心で真面目な教え子だ。
「わたくしなど、まだまだですわ。それに、覚えたところで、人前で美しくお点前を披露できなければ、無意味でございましょう。精進しなくては」
「はい、凌木先生!」
意気消沈、叱咤督励の雰囲気などどこ吹く風。落ち込む社会人の隣で、耳に腕を付けて元気一杯に挙手したのは、近所の大学に通う二回生の教え子だ。
白いブラウスの上に厚手のセーターを着込み、黒のスカートにすっかり包まれた膝はきちんと揃えられている。髪は綺麗に編み込まれ、露わになった頬が寒さで淡く色付いているのが、幼い少女のようだ。
絢緒の仮初の年齢なら、彼女が一番近い。
「さっき釜がシューシューって鳴っていたのが、松風ですか?」
「ええ、そうです」
絢緒は笑みを浮かべて首肯する。
シュンシュン、と釜の煮え立つ知らせを松風、または松籟という。山里や浜辺に佇む松林を吹き渡る風の音に例えられて、そう呼ばれるのだ。
音に耳を傾けられる辺り、この中で彼女が一番、精神的にゆとりがあるのかも知れない。
茶を点てるにあたって、心を砕くのは水、湯を沸かす炭の加減である火相、そして湯の沸き加減である湯相が重要になる。温度によって、抹茶の味や香りを損ねてしまうし、沸騰の頂点では味を損ね、力がない。
かの有名な茶人、千利休は湯相を、二つの音と三つの泡の様子から五つに分けた。
土の中で蚯蚓――と勘違いされていたが、実際は螻蛄――が鳴く、ジィーという小さな音に似ている「蚯音」。蟹の目のような小さな泡が立つ「蟹目」。泡が連なって湧き上がる「連珠」。魚の目の大きさほどの泡を指す「魚眼」。そして沸騰直前の七十から八十℃で、茶を点てるのに最も適した「松風」。沸きすぎた水は「老け」、茶に適さず、「水老」あるいは「死水」という。
「蚓音って、初めて由来を知った時は、てっきり雑巾を絞る時みたいに、体を引き絞って発声でもしているのかと思っていました!」
「ミミズ、死にますよね、それ」
無邪気な教え子のえげつないたとえに、社会人の顔が引き攣っていた。
絢緒にしても、茶を点てるたび、脳内で引き千切られる蚯蚓が横切りそうだ。
「湯相、火相と言えば、炭の火ではありませんが、最近は火事が多いですねぇ」
「あら、千草さん。余計なお喋りはいけませんわ」
ぼやくように零した初老の教え子に、着物の女性がぴしゃりと窘める。
「『我が仏、隣の宝、婿、舅、天下の軍、人の良し悪し』ともいうでしょう? ね、凌木先生?」
「定年退職した身には、滅多に若い人や別嬪さんと話せる機会なんて、ないのですよ。多目に見ておくれ。ちょっとくらいなら良いだろう、凌木先生?」
教え子二人に乞われて、絢緒は苦笑する。
茶会や茶室では許されないことだが、少なくともこの教室では、そこまで雁字搦めにするつもりはなかった。
「結構ですよ。本来はいけないことですが、同じ教室内のコミュニケーションも大切ですから」
呆れの混ざった吐息を大袈裟に吐き出す女性の隣で、それは良かった、と初老の教え子が柔らかく笑う。
「実は先日、私の自宅のすぐそばで、火事がありましてね」
「まあ!」
「だ、大丈夫だったんですか!?」
驚きの声を上げた女性が袖で口元を隠し、大学生がぎょっと目を剥いた。
絢緒も初耳だった。
「自宅は勿論ですが、お怪我はありませんでしたか? ご家族の方は?」
こうして教室に顔を出せているのだから、大事はなかったのだろう。しかし、万が一のこともある。
気遣わしく思って尋ねると、お陰様で、と初老の教え子は鷹揚に答える。
「火の粉が飛んで来たくらいで、家族も無事です。火元がゴミステーションだったのが、不幸中の幸いでしたな。ほら、人も余裕で入れそうな、アルミ製の檻みたいなやつです。火もすぐに消し止められて、近所でも怪我人はおりません。火事は火事でも、あれは放火でしょうな」
「この時期は空気が乾燥していて、火の回りも速かったでしょう。無事で何よりでしたね」
最近は本当に物騒です、と社会人が顔を顰めれば、初老の教え子も重く頷いた。
「火元の近所には児童館もありまして、昼間だったらと、ちょっと冷や冷やしましたねぇ」
そう言えば、と袖を整えた女性も口を開く。世間話に混ざることにしたらしい。
「二週間ほど前にも、多田八幡様の近くの幼稚園で、放火があったそうですわね。閉まっていた門の前が焼けたとか。ほら、近くに怖いお稲荷さんがある……」
「ああ! 縁切神社ですね!」
ポン、と大学生が明るく手を打った。頭上には点灯した豆電球が浮かぶようだ。彼女の口から、最近すっかり耳馴染んだ単語が飛び出したが、絢緒は素知らぬ顔で耳を傾ける。
被害がなかったこともあって、話題は放火から縁切神社へと転がっていった。
「名前は聞いたことがありますけど、知っているんですか?」
「友達や先輩達が、良く肝試しに行っているらしいんですよ。わたしは絶対行きませんけど! 頼まれたって行きませんけど! 本当にお化けに会っちゃったらイヤですもん!」
社会人は恐らく、所在地や祭祀対象を尋ねたのだろう。伝わらなかった大学生は、ひたすら身を震わせている。ホラーが苦手なのは良く分かった。尋ねた社会人は、くだらない、とでも言いたそうにうんざり顔をしている。
ああ、と思い出したように、初老の教え子が顔を上げた。
「あの縁切神社なら、昔から、どんな縁でも切ってくれると有名ですからなぁ。私が若い頃に聞いた話では、妻子ある男性を奪うために、女性がお稲荷さんにお願いしたとか」
「その話なら、わたくしも聞いたことがありますわ」
その話に、女性も便乗する。
「男性は愛する妻子もあって、幸せに暮らしていたのですが、一人の女性が彼に好意を寄せたのです。男性に家族があるのは重々承知での恋慕でした。誠実な男性は、当然ながら想いを受け入れません。ずっと断り続けるのですが、女性は諦められず、職場や自宅にも押しかけるほど大胆になっていったそうです。逆上したした彼女が、妻子にも嫌がらせをしたとか。今で言うなら、ストーカーですわね。どんな手を使っても靡かない男性に、業を煮やした女性は、お稲荷さんに捧げ物をしてお願いしました。それは、小さな桐の箱でした。男性と出会った頃から伸ばしていた、自分の真っ黒な髪を詰めた、ね」
ひゃあ! と悲鳴を上げたのは大学生だ。社会人の顔色が蒼褪めているのは、ホラーな展開より、ストーカーのせいだろう。
「おや、随分と詳しいご様子ですな」
「弁えているだけで、わたくしだって、世間話に興味がない訳ではありませんのよ」
初老の教え子が半ば感心していると、女性は居心地が悪そうに身じろぎした。
茶の湯の心得を著した狂歌を引っ張り出してまで諫めた手前、バツが悪いのだろう。
「男女関係の縺れ話なんて、畳の目ほどもありますからなぁ。それに、この話が広く知られたのは、髪の束が入った箱が、実際に神社に置かれていたからなんですよ」
「ほ、本当にあったんですか! 噂じゃなくて!?」
「男はどうなったんですか?」
詰め寄るように身を乗り出す大学生と社会人だが、初老の教え子の答えは、さあ、とつれないものだった。
「私は知らないんだけれども、この後をご存知ですかな?」
「わたくしも分かりませんの」
唖然とする二人の反応を面白がるように、女性はコロコロと微笑んだ。
「男性は妻子共々、命からがら遠くに逃げられたとか、お稲荷さんが願いを聞き届けて、男性は女性のものになったとか。実は、女性のお稲荷さんへのお願いは、男のこの世との縁を切ることで、一緒に心中した、なんていうのもございますわね」
「脅かさないで下さい。桐の箱なんて単なる悪戯で、その後の話は噂話、なんですよね?」
「結末が分からない以上、そうとも言い切れませんでしょう?」
恐る恐る確かめる社会人は、どこか必死だ。それを猫のように細めた目で眺め、紅を引いた女性の唇が弓なりに吊り上がる。
「昔から、女は恐ろしい生き物といわれているでしょう。情念に身を焦がす女なんて特に、ですわ。それを忘れて、火遊びなんてしようものなら、火達磨程度で済めば僥倖、骨も残らないことだってございますのよ」
甘やかな女性の声もあって、背筋がひやりと寒くなるような色香だった。
「この話の男性は違ったようですけれど、袖振り合うのも多生の縁、といいます。誰がどこでどんなことを想っているかなんて、当人以外には推し量れませんわ。アナタも凌木先生も、くれぐれもお気を付けなさいませ」
「は、はい! 気を付けます!」
「ご忠告、肝に銘じておきます」
己の女性としての魅力を分かっていて、武器に使える彼女が言うなら、素直に聞いておくのが吉だろう。
男二人の殊勝な返事に、女性は口元を隠して小さく笑った。
「まあ、良いお返事ですこと。多くの男性は嘘を吐く時、目が泳ぐそうですから、お二人は安心ですわね」
「おや、私は心配してくれないのかな」
「わたくし、目を見ながら平然と嘘を吐ける男性って、信用しませんの」
ばっさり切り捨てられ、ちょっとしょんぼりする好々爺をよそに、ほう、と感嘆の吐息を漏らすのは大学生だ。口もきけないほど怖がっているのかと思えば、大人の魅力に当てられて、すっかり女性の虜になっていた。しかし、突然ハッと我に返ると、難しい顔で腕を組み、そして今度は、何事か思い付いた顔で、再び右腕を真っ直ぐに上げた。
まさに、百面相だ。見るともなしに見ていた絢緒は、心中で感心した。
「はい、凌木先生! さっきの苺大福って、余りはありますか? あるならあたし、是非頂きたいです!」
「君、ここに何しに来ているんですか」
じろり、と見咎める社会人は盛大に呆れていた。
色気より食い気、花より団子。大学生が大人の女性へと花咲かせるのは、まだ随分と先のことらしい。
「怖い話さえ自分の魅力にできるスキルはないので、せめて、美味しいもので恐怖くらいは吹き飛ばそうと思いまして! だって、超美味しかったと思うでしょう!? 凌木先生の手作り苺大福!」
「ま、まあ、否定はしませんが……」
大学生の気迫に押されながら、社会人が首肯した。同意見に心強くしたのか、大学生の目が輝く。身振り手振りを付けて、熱く語り始める。
「旬の苺の甘酸っぱさに、砂糖で煮たところを塩で締めた小豆の甘さが、これまた絶妙! 格別の一品でした! パスタを茹でようとしてキッチンを吹っ飛ばした身からすれば、毎回手作りっていうのが、もう! 素晴らしすぎて! あたし、凌木先生の手作りお菓子を食べに来ていると言っても、過言じゃないですよ!」
「有り難うございます。気に入って頂けて、何よりです」
台所、爆散。
都合良く聞こえない見えない振りをしながら、絢緒はにっこりと笑って礼を述べた。
年長の教え子二人は目を丸め、絶句した社会人が慄いているのは、きっと気のせいではないだろう。
彼女の料理の腕前と台所の状態が非常に気になるが、そこまで手放しで褒めてもらえるなら、作った甲斐があったというものだ。かなり年下の上司は食べてくれただろうか、と絢緒はちらりと思った。
「しかし、申し訳ありません。人数分しか持って来ていないので、余りはないのです」
「そ、そうですかぁ……」
項垂れた大学生ががっくりと肩を落とした。今までの太陽のような明るい溌溂さが嘘のように、萎んでいる。雨で濡れた子犬の方がまだ元気だ。
見かねた絢緒は、次回は多めに持参することをこっそり決心した。そこに、大学生の隣から何かを包んだ懐紙が、そっと畳の上に差し置かれた。寄せられた懐紙の中には、縦に半分に切られた苺大福がちょこんと鎮座している。気付いた大学生の目が星のように輝いたことは言うまでもなく、何でもない顔をしている社会人に大袈裟なほど礼を伝えていた。
彼が菓子切で苺大福を半分に切っていたことを思い出し、絢緒は微かに口元を緩める。口に合わなかったかと心配だったのだが、余計なお世話だったらしい。年長の教え子二人も微笑ましそうに笑みを零していた。
「良い機会ですから、茶席の菓子にも、少し触れましょう」
絢緒がそう切り出せば、教え子達は雑談をやめ、すっと背筋を伸ばす。
賑やかだった大学生も、譲られた苺大福から目を放し、真摯な顔で耳を傾けている。
「濃茶には餅菓子や羊羹などの主菓子、薄茶には落雁や金平糖などの干菓子、ということはご存知でしょう。前者は四季をイメージして作られ、情緒ある銘が付けられます。後者は象ったものが多いです。しかし今日のように、薄茶の会に主菓子が出ることもあります」
初老の教え子はじっと聞き入り、心に留め置こうと女性や社会人の目も真剣だ。つい、絢緒の声にも熱が入る。
「茶会の菓子は季節を表現する役目もあります。和菓子は、茶会のテーマや季節に沿って趣向が凝らされるので、おもてなしとしては心強いです。ゆえに本来は、おもてなしをする側が手作りするものなのです。しかし、なかなかできませんから、和菓子の専門店で買うことになるでしょう」
途中から、分かりやすく絶望した大学生に気付き、絢緒は苦笑した。
「それから、必ず和菓子の必要はありません。親しい人を招いてのおもてなしや、自宅での茶会などに、パウンドケーキやマカロンを出すこともあります」
垂れてしまうクリーム系は適さないでしょうね、と言い添えれば、教え子達はそれぞれ小さく頷く。
「菓子を出された時、茶会のテーマや四季の風雅を込めた由来を耳で愉しみ、その美しい姿を目で愉しみ、そして舌で愉しんで、移ろいゆく季節を味わいます。どんな茶会でも一期一会です。おもてなしをするのもされるのも、今日この日この茶会を大切にするのが、茶の湯の楽しみ方ですよ」
講釈を打ち切り、絢緒はにこりと微笑んだ。
「心を込めて支度をし、おもてなしをしたら、当然仕舞いもあります。次は、茶碗が客人から戻って来た後、仕舞いのお点前です」
教え子達が居住まいを正すと、それを見た絢緒も改めて気を引き締める。茶室の空気が静かに張り詰めた。
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