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壱《いち》
立春をとうに迎え、寒明けの雨が地面を湿らせる頃。しかし、実際に先週降ったのは霙混じりの雪だった。建物の影や道路の隅で、排気ガスで濁った雪が小さな氷山を作っている。まして光冴え、星の瞬く音さえ聞こえそうな深夜ともなれば、頬を突き刺す空気の冷たさも一段と増すようだ。春の足音はまだまだ遠い。
余寒の厳しい公園には当然ながら誰もおらず、時折吹く風にブランコが寂しく軋んでいた。裸の桜の木は寒さにも慣れた様子で佇んでいる。ひょろひょろと背の高い街灯が硬い光で仕事中だ。
「さぁあああ!」
冬の空気を身体に取り込むと、キンキンに肺が痛んだ。慌てて冷気を吐き出す。
「むい!」
寒いよ! ともう一つおまけに叫び、柳月神奈は小柄な体を更に丸めて震え上がった。
十代半ばの少女だというのに洒落っ気もなく、癖のない黒髪は肩の辺りで無造作に垂らしたまま。眉上の前髪は不揃いで、自分で切った失敗を誤魔化し切れていない。どこにでもいそうな少女だが、そのコートの上に着ているのは、紋も刺繍もない黒い羽織という、なかなか風変りな格好だ。
「冬将軍殿が張り切りすぎか、佐保姫様のおサボりか。お二方とも時候と空気を読んで欲しいなぁ」
「神奈の文句は、春を司どる女神への苦情になっても、冬の武官には嬉しい声援にしかなりませんね」
優しい声音で微かに笑った気配に、神奈はじっとりした目付きで、隣のグレーのチェスターコートを見上げる。結構な身長差が、更に憎らしい。
「余裕そうだけど、君だって結構寒いんだろう、絢緒」
「お見通しでしたか」
色素の薄い長めの髪を揺らした二十歳そこそこの青年――凌木絢緒は、驚くでも悪びれるでもなく、顔を綻ばせる。にこやかに微笑む様は、整った顔立ちもあいまって、万人が万人とも物腰の柔らかな好青年の印象を受けるに違いない。
「実は、調子に乗っている武官と職務怠慢の女神を纏めて叩きのめしたい心境に駆られていて、さっきからとても困っていたのです」
形の良い唇から飛び出したのは、丁寧な口調とは裏腹に、過激極まりない発言だった。一見すると裏のなさそうな微笑みだが、それがなおのこと、本気でやりかねない気迫を感じさせる。
「爽やかな顔で物騒なことを言わないでくれ。こっちも反応に困るし、感情と台詞と表情、統一したらどうかな」
「心に留めておきますね」
神奈の言葉に生真面目な様子で頷く絢緒は、だが絶対実行などしないだろう。
ますますじっとりした目付きになる神奈をよそに、絢緒はふと、己の首から臙脂のマフラーを引き抜いた。屈んで、神奈の首にくるくると巻き付ける。
散々騒いだものの、非があるのは防寒対策の甘い己だ。断ろうと、神奈はマフラーを掴んだが、しなやかな指が許さなかった。帰ったらノンカフェインの葉で温かいミルクティーを用意しましょうね、それともホットミルクでしょうか、と絢緒が有無を言わせない笑顔でマフラーを整えてしまう。危険な台詞を吐いた人物とは、到底思えない手付きだった。
「ま、神奈の『寒い』はまだ可愛いものです。あれはどちらかと言えば『ひもじい』らしいですから」
あれ、と赤味がかった瞳が指し示したのは、水色の塗装があちこち剥げた滑り台。その踊り場にはもう一人、モッズコートの男がいた。
黒髪を短く刈り込んだ長身で、前を開けたコートから引き締まった体躯が覗いている。年の頃は絢緒とそう変わらない彼――黒滝陣郎は、童心に返ってはしゃいでいるのではない。直刃のような金の眼光を、周辺一帯に走らせている。辺りの様子を探っているのだ。視覚だけに頼ることなく、耳殻の尖った特徴的な耳も、頻りにそばだてていた。
不意に、陣郎が顎を上向かせ、鼻をすんすんとひくつかせた。途端、がっくりと筋肉質な肩を落とした。遠目にも分かるほどの落胆ぶりだ。
「東の三ブロック先に屋台のおでん、南の駐車場にはラーメン屋。ああクソ、腹が減った!」
「君の鼻と胃袋、働きすぎじゃないかな」
今なら間違いなく睡眠欲を主張したい神奈は、しょぼしょぼした目で呆れてみせた。陣郎の食欲には、いっそのこと感動すら覚える。
防護柵に片足を掛けて、ひょい、と身軽に飛び降りた陣郎が、こちらに向かって来る。その凶相に凄味が増しているのは、空腹のせいだろう。
「おい、明日の、もう今日か。とにかく、朝飯は何だ? ちなみに俺はガッツリでもいけるぞ。それから、雑魚が寄って来ているだけで、この辺りに異常はねぇよ」
「偵察をついでにこなしておきながら自己主張は一丁前ですか、この腹減らし。偉そうにほざくくらいなら、いっそ餓死でもして下さい」
この寒さに勝るとも劣らない冷たい毒を吐きながら、絢緒がにっこりと笑う。彼の慇懃無礼な言動は、同僚であろうと容赦がない。
「肉まん、餡まん、おまけに焼き芋をさっき平らげたくせに、燃費が悪いにもほどがあるでしょう、この駄犬。流行のエコカーを見習いなさい」
「悪かったな、低燃費じゃなくて! 大体他人のことを言えた口かよ! 食わなきゃ人間に化けていられねぇのは、てめぇもだろーが!」
「さらっと正体がバレそうなことを叫ぶんじゃない」
やれやれ、と神奈は嘆息する。
そう。絢緒も陣郎も人に『化けて』いるのだ。
狐狸に化かされ、鬼が人を喰うといわれていた昔。身の内の澱も夜の暗がりも、人間は恐れ、それに付け込んだ魑魅魍魎が跋扈していた時代があった。しかし日進月歩の文明の世では、人間の闇は日々変容し、昼も夜もない。棲処を失った彼らは、残った僅かばかりの暗闇に縋るか、露と消えてしまうか。あるいは、人間社会に紛れて生活していくしかない。
いかにも温柔敦厚とした絢緒も、極悪人面の陣郎も、人間を装ってはいるものの、二人は世紀単位の齢を経た妖だ。
「陣郎が冬の醍醐味を堪能していて何よりだよ。ああ、そうだ」
吐いた息が一層白く曇り、すぅ、と神奈の背中を冷たいものが走る。絢緒と陣郎が顔を上げるのと、羽織を捌いて神奈が振り返ったのは、ほぼ同時だった。
「――君は何が好きかな、小坂威吹君」
三人の視線の先には、先刻まで影さえなかった人物がいた。
点滅を始めた街灯の足元に、茶のピーコートの背中がぽつりと立っている。そこから伸びたスラックスの柄は、二駅向こうの私立高校のものだ。スニーカーの足元に視線を落としていた横顔が、のろのろと上がる。幼さを残した青年の顔立ちは、きっと日に焼けていただろう。今は血の気が失せ切っている。ぐるん、と音がしそうな勢いで首だけを巡らせて、彼は振り返る。
「オレを、呼んだか?」
ざらざらに掠れた声だった。裂けんばかりに見開かれた目は血走って濁り、小さくなった瞳孔がぐるぐると目まぐるしく虚ろに揺れている。神奈がその有り様を目にした途端、彼――小坂威吹の姿が文字通り消えた。
まるで最初からそこにいなかったように、忽然と雲散霧消したのだ。
「アンタ、オレを呼んだよなぁあ!?」
「!」
瞬き一つする間もなかった。身体の底から絞り出すような咆哮に襲われる。前触れなく姿を現した威吹が、神奈の眼前に迫っていた。
「オレが見えるのかアンタ!? 見えるよな!? 見えるんだよな!?」
今にも掴み掛からんばかりに詰め寄られ、威吹のひび割れた唇からは怒涛の詰問が飛び出す。収斂した二つの瞳には、驚愕と猜疑と縋るような期待がぎちぎちに詰まっていた。迸った絶叫に不意を突かれ、鼓膜をつんざかれた神奈の気が遠くなる。その隙を逃さず、粗暴な手が伸びるが、それより早く、横から伸びて来た腕が神奈を攫った。
「下がって下さい」
踏鞴を踏む神奈の目の前には広い背中。絢緒は自身の背へ庇うと、威吹から視線を外すことのないまま、冷静な声で呼びかけた。
「小坂威吹さん、落ち着いて下さい」
「何だよ、アンタ! 邪魔すんじゃねぇよ!」
「混乱するのは分かりますが、女性に対していきなりその態度は感心しません」
「うるっせぇな! 邪魔すんなよ! ちょっと話すくらい、どうってことねーじゃんか!」
威吹が唾を飛ばして怒鳴るものの、拳一個分は上にある助手の顔には、動揺のどの字もない。その様子が、威吹の激高に拍車をかける。感情が先走るのか、頭を掻き毟る様は、まるで癇癪を起こした子供のようで、そのうち地団駄を踏みそうだ。
「アンタには絶対分からねーだろ! 誰一人オレが見えない! 声だって聞こえなかった! 何日も何日も誰にも気付いてもらえないって、アンタに想像できるか!? オレの気持ちが分かるのかよ!?」
「拗らせた思春期みたいになっているぞ」
威吹の頭には相当血が上っているらしく、目の前の助手にも知覚されていることに気付いて いない。どうするんだ、コレ、と陣郎が面倒臭そうな一瞥を寄越す。首を振って肩を竦める神奈も、似たような顔で答えるしかない。
爆発した感情も出し切れば収束するだろう。下手に抑え込むより吐き出させた方が、ストレスの発散として、威吹には良いかも知れない。何より、止めるのが面倒臭い。
しかし、視えて話せる相手に興奮しているのか、威吹は突っ走ったまま。平常心を置き去りにして戻って来ない。
マフラーを巻き直し、庇護している絢緒の横から、神奈はひょっこり顔を出す。
「ちょっとは落ち着いてくれないかな。話ができない」
「これが落ち着いていられるか! とにかく、そこを――うぎゃあ!?」
間抜けな悲鳴とともに、威吹が神奈の視界から消えた。後ろを振り返ると、ピーコートの背中が、車に轢かれた蛙よろしく、地べたにうつ伏せで張り付いている。
その後ろ頭に、絢緒と神奈は揃って嘆息を落とした。
「だから申しましたのに」
「あーらら」
いきり立った威吹は、立ちはだかった助手を押し退けようと、体当たりを仕掛けたのだ。しかし、思い付きの実力行使は、当然のように失敗。勢いを付けすぎたのか、顔面から地面に飛び込むようにすっ転び、今は冷たい土に熱烈な口付け中だ。
神奈は勿論、諫めていた助手が何かしたのではない。何もしていなかった。
威吹の体は、庇われていた神奈の体ごと、絢緒をすり抜けたのだ。
慌てて立ち上がった当の本人は、顔や肩を頻(しき)りに触っては自分の体を確かめている。暫くそうした後、へなへなとその場に座り込んで、愕然と呟いた。
「いっ……たく、ない。何で? それに今……!」
「そりゃ、君は死んでいるからさ」
「――……は……? は? はあ?」
神奈が簡潔に答えれば、呆気に取られた顔の威吹は、バリエーション豊かに一文字を繰り返す。それも束の間、ふと我に返ると、不快と苛立ちであからさまに顔を顰めた。
「アンタ、何言ってるんだ? ちょっとコケたくらいで、冗談にしちゃ、タチが悪いぞ。全ッ然面白くねぇし」
「それは失礼。でも、君が死んでいるのは本当なんだよ」
絢緒の背中から出ると、神奈は威吹の顔を覗き込んだ。精一杯睨み付けて来る目の奥が、ほんの小さく揺れている。
「君も気付いただろう? さっき、君は絢緒とボクの体をすり抜けた。地面にぶつかったのに、痛くないとも言ったね。それどころか、地面の感触もしなかったんじゃないかな。肉体のない君に、物理的接触は不可能なんだよ」
「オレの、体……」
不意に、威吹は自分の掌を胸の真ん中に押し当てた。その下には、盛んに脈打つ真っ赤な臓器があるはずなのだ。
噛んで含めるように、神奈は続ける。
「思い出してごらんよ。威吹君は我を忘れるくらい、死者の体を体験しているじゃないか。散々喚いていただろう、誰も見てくれない、聞いてくれない、って。中には目が合ったような気がした人もいただろうけど、結局無視されちゃったんじゃない? それとも一人くらい、君と話してくれたかな」
「ハ! アンタ、オレを馬鹿にしてるだろ」
頬を強張らせながらも、威吹は鼻で笑った。
「アンタ達は今! オレと話しているじゃんか。アンタ達も死んでいるのかよ? 違うだろ? だったら、オレは死んでなんか……」
「確かに、ボク達には死んでいる君が丸視えだし、話もできる。でもそれは、ボクが生れつき、ちょっと特殊な目と体質なのが理由だよ。君が死者であることは変わらないのさ」
羽織の裾を捌いて、神奈はその場に屈んだ。お互いの目が見えれば、少しは話しやすいだろうか。うっすらと霜を張る地面が近くなった分、冷気が這い上がって来るようだ。
突然距離を縮められて、威吹は気恥ずかしそうだ。それには構わず、神奈はにこりと、笑顔を向ける。
「改めまして、今晩は。そして、初めまして。来るのが遅くなって申し訳ない。ボクは柳の成仏屋、柳月神奈と申します」
「じょうぶつ、や……?」
覚え立ての言葉を口にする子供のように、威吹は拙く繰り返す。
「そう。略して柳屋とも呼ばれているよ。後ろの二人はボクの助手で、絢緒と陣郎」
神奈が見上げて示せば、軽く頭を下げたり目で応えたりと、助手達はそれぞれ挨拶する。つられて頭を下げている威吹は、元は素直な性格なのだろう。
「ボク達は確かに君が視えているけれど、威吹君と同じじゃない。今の君は普通の人間には視えない。幽霊と言えば分かるかな。死後は、想念だの思念だのの世界なんだって。君みたいに死んだ時の姿が基本だけど、子供の頃や若い時とか、それぞれ思い入れの強い格好で現れるんだ。損傷や怪我があれば、それが再現されることもある」
「……怪我……?」
ぼんやりしていた威吹の目に光が走った。閃くものがあったらしい。
しかし、それも束の間。驚愕の叫びが威吹の正気を吹き消してしまった。
神奈が見ると、ピーコートの左脇腹に、ぽつり、と親指ほどの黒い染みが浮かんでいた。染み出た黒は、忽ちに広がっていく。
威吹はもどかしそうな手付きで釦を外し、慌ててピーコートを脱ぎ捨てた。制服のブレザーがぐっしょりと濡れている。血だ。真っ赤な血が噴き出していた。
彼の手が力一杯に腹を抑え付けるものの、溢れ出る血に止まる気配はない。
「そうだ怪我じゃなくてそうじゃなくて、でも血が、そう血が、血でオレ、確か……!」
滅茶苦茶な台詞は、助けを乞うことはなく、威吹は思い付くまま言葉を並べているだけのようだ。地面に尻を擦り付けたまま、必死に手足をばたつかせている。ぎょろぎょろと動き回る目は、焦点が合っていない。
「オ、オレ、死んじゃった! ど、どう、どうしようどうしよう! どうしたら、どうすれば良いんだ!? やりたいことも、やらなきゃいけないことだってあるのに!」
「思い出したのは良いけど、しっかりしてくれ、小坂威吹く、ぃ痛ぁ!」
我に返らせようとしたところで、神奈が素っ頓狂な声を上げた。頭を抱えて、その場に膝を着く。
頭蓋骨の内側で金属を打ち鳴らしているようだ。鼓膜を突き破るような耳鳴りに声も出せずにいると、すかさず絢緒の腕が抱え上げてくれた。
これだから過敏な体質は厄介だ。自分と相手の意志に関係なく、影響を受けやすい。
その間も何事か喚き立てる威吹の腹からは、大量の出血が続いている。彼の地雷の踏み方を間違えたか、と神奈が内心で舌打ちをしかけたところで、隣から本物の舌打ちが聞こえた。
陣郎だ。眉間に太く深い皺を刻んだ三白眼は、極悪以外の何物でもない。この凶相、腹ペコ具合で変動するのだが、今は普段の二割増しだ。威吹の真正面から目を合わせるべく、股を開いて腰を落とした格好が、妙に堂に入っている。
「一人で盛り上がっているところ、悪ィけどよ。取り敢えずてめぇ、落ち着けよ」
「ひぃッ!」
再び錯乱の火が着いた威吹を、恫喝声があっさり鎮火した。短い悲鳴を上げて飛び上がる彼に、陣郎が顎をしゃくって促す。
「それから、さっさと立て。ギャースカ騒ぐんじゃねぇぞ。塵屑寄って来て、うぜぇ」
「は、はいぃ! すんませんしたッ!」
「体育会系縦社会で鍛えられたと思われる、良いお返事ですね」
バネのように飛び上がった威吹が、背中に物差しでも突っ込まれたようなきをつけの姿勢を披露する。見事な条件反射に感心しているのは絢緒だ。
意図せず己の強面りを発揮した助手は、立ち上がるや否や、桜の幹の向こうへと、金の眼光を飛ばした。唇の間からは、地響きのような唸り声と共に、鋭い犬歯が覗いている。
陣郎の恐ろしい顔付きは自前だが、その威嚇相手は、目の前の縮こまった高校生ではない。彼の言うところの塵屑共が、威吹の混乱に乗じてちょっかいを出そうとしたらしい。この場でこの世のものではないのは、何も小坂威吹だけではないのだ。
「小坂威吹君、落ち着いたかな」
脇腹の痛みと話を聞ける心境。神奈は眉間に拳を押し当てて、耳鳴りをやり過ごしながら、その両方を尋ねた。
威吹はこくり、と小さく頷き、そっと脇腹から手を放す。ブレザーに広がっていた濁った赤い跡は、跡形もなく消えていた。手を汚した血も、潮が引くように、するすると袖の中に引き返していく。それが威吹の心に決定打を与えたらしい。
「あんなに、痛かったのに。……オレ、本当に、死んじゃったんだな……」
冷たい空気の中、小さく零した言葉は、ぽとり、と落ちた。
それから唇を引き結び、威吹は意を決したように顔を上げると、勢い良く頭を下げた。部活仕込みと思われる折り目正しい九十度の謝罪だ。
「あ、あの、すいませんでした! オレ、取り乱しちゃって。助手さん達にも、ご迷惑をお掛けしました」
「こっちは慣れてるからよ、気にするな」
「むしろ、まだまだ可愛げのある方です」
半ば自棄のように声を張り上げたのは、己への鼓舞でもあったらしい。毒気を抜かれる神奈をよそに、陣郎が頷き、絢緒は鷹揚に応じる。世紀単位のご長寿である彼らにすれば、恐慌を来たした男子高校生など、愚図る赤子と変わらないのだろう。
擦り合わせた両手に息を吐き掛け、さて、と神奈は仕切り直す。
「小坂威吹君。君は成仏って知っているかな」
「何だよ、いきなり。あれだろ? 死んだ人があの世に逝くことだろ?」
「ピンポーン」
正解の効果音で返すも、質問の意図が分からない威吹は怪訝そうなままだ。
生あるもの、必ず命尽きる。勿論、人間もその定めの中にいる。
しかし、死んだ人間が、押し並べて大人しく彼岸へ渡れるのではない。突然の病に倒れ、臨終に家族と会えなかったもの。事故や事件に巻き込まれて、無念にも命を落とすもの。様々な事情で生まれる執着や心配、未練があるために、この世に留まってしまう幽霊となってしまう場合がある。
幽霊画のように足がなかったり、歌舞伎のような死に装束だったりはないが――少なくとも神奈は、お目に掛かれたことはない――彼らは大抵、生前の姿で現れる。中には、死んだ自覚がないまま、生前の日常を繰り返そうとするものや、今際の際の衝撃で己の正体を失念してしまうもの、あの世からのお迎えを拒否する強者もいる。そんな彼らの心残りを解消、時には説得して、あの世へと成仏させる手伝いをする。それが柳屋の生業だった。
「人間は、死んでからあの世へのお迎えが来るまでの四十九日間、この世に留まるといわれている。ところがどっこい、今の威吹君のように、訳あって、四十九日後もこの世に留まる死者もいる。そんな幽霊を見つけて、あの世へ逝くよう説得するのが、成仏屋の仕事なのさ」
ここまでは良いかな、と神奈が尋ねれば、威吹は自信がなさそうに頷く。
「何となくだけど、多分、分かった。アンタ達にオレが視えているのは、成仏屋とその助手だからなのか?」
「いいや。ボクは見鬼と呼ばれる、ちょっと目が良すぎるただの人間さ。 この世に存在するはずがないもの、見えるはずがないもの、そんな色んなものが視えてしまう。大雑把に言うなら、ボクの能力で見鬼じゃない助手達にも今、君が視えているんだ」
助手達を示すと、陣郎は肩を竦め、絢緒は苦笑する。
「そんなこと言ったって、普通の人間に死者なんぞ視えるはずもねぇからな。今も傍目からすりゃ、俺達は誰もいない場所に話しかけている間抜けだけどよ」
「不審者通報もしょっちゅうです。その時は、三十六計逃げるに如かず、ですが」
「は、はあ、大変っすね」
反応に困った様子で、威吹はそう返す。それから、気まずそうに尋ねた。
「あのさ、アンタ達は何でオレを知っているんだ? もし生きている時の知り合いなら、申し訳ないなって、思うんだけど」
「それは杞憂だ。ボク達が君を知っているのは獄卒の紹介だからね。獄卒っていうのは、地獄の鬼のことだよ」
「ちょっと待て! オレってば、地獄に連れて行かれるほど、悪いことをしちゃったの!?」
音が聞こえそうな勢いで威吹の顔から血の気が失せた。ただでさえ死人の顔色だったのに、輪に掛けて蒼褪めている。
驚かせたかと、神奈は苦笑しながら指先で頬を掻いた。
人の命が尽きた時、地獄から三人の獄卒が迎えに来る。彼らは肉体から魂、生命力を奪い、体を腐敗させた後、あの世へと連れて行くのが仕事だ。
「イメージとしては死神が近いかな。ただし 、来るのは黒衣を纏った髑髏じゃなくて、角の生えた公務員だけど。仕事も、適当に振り回した大鎌で魂を刈り取るんじゃなく、死者を迷子にしないための、あの世への水先案内だ。でも、威吹君みたいに、死者に心当たりがないと、彼らの上司に当たる上級獄卒の判断でボク達に丸投げ、もとい依頼が来る。そこで必要になるのが、……あれ? どこだっけ?」
言いながら、神奈は羽織の裾を振ったりコートのポケットを探ったりと忙しない。威吹が怪訝そうにする中、絢緒が自身のコートの懐に手を突っ込んだ。首を傾げる神奈の目の前に、取り出した黒い紙を差し出す。想定内です、と言わんばかりに助手は笑顔だった。大丈夫かよ、ともう一人の助手の呆れた声は、神奈は聞かなかったことにする。
一見すると細長い黒い紙だが、実は墨色の和封筒だった。切手は貼られておらず、消印どころか宛名も差出名もない。端を切られているせいで、辛うじて封筒だと分かるだけだ。
「そこで必要になるのが、この封筒さ」
当て付けと面倒ついでに、神奈は探し物を持った絢緒の手首を豪快に掴み、そのまま威吹に翳すように見せる。
「不幸の手紙みたいだけど、死者の生前の記録なんだ。獄卒の依頼を引き受ける時、人違いならぬ幽霊違いをしないように、ね」
「……それには、オレを刺した犯人の名前って、書かれてるのか?」
黒い封筒を見つめたまま、威吹が小さく尋ねた。左の脇腹に押し当てられた手が、コートの生地を握り締めている。
「オレ多分、誰かに刺されたんだ。あ、いや、はっきりと覚えている訳じゃないんだけど。なあ、犯人は捕まったのか? まさか、オレの知っているヤツってことはないよな?」
「いいや。ああ、今のは、前半の回答だよ」
神奈は生真面目に答えた。
威吹の脇腹の傷は、犯人が馬乗りになって負わせた致命傷だ。忘れているだけで、実際は他にも切り付けられ、滅多刺しにされた傷が二十箇所以上にも及んでいる。
「残念ながら犯人はまだ捕まらず、目下警察が捜査中だ。だから後半の回答は、『分からない』んだ」
「そっ、か……」
威吹は気落ちした様子で、そうなんだ、と肩を落とす。しかし突然、思い付いたように勢い良く顔を上げた。
「ち、ちなみにどれくらい、アンタ達はオレのこと、知っているの?」
絶賛思春期中の身では、露見されたくない事柄だらけだろう。口の端を引き攣らせ、恐る恐る尋ねる彼に答えたのは、黒い封筒を丁寧な手付きでコートに仕舞う絢緒だ。
「一通りの経歴や家族構成、死んだ理由が主です。小坂威吹さん、男性、赤苑高校一年生、享年十六歳、サッカー部に所属だと、この封書にありました。プライバシーの侵害、個人情報の流出だと言われると否定できませんが、私達が口外することはありませんので、ご心配なさらず」
そもそも、と神奈も付け加える。
「ボク達に与えられる君の情報は必要最低限だ。小学生からやっているサッカーのせいで自分が短足のような気がしていたとか、部活のせいで女子に臭いって言われたらどうしよう、って実は気にしていたとか。これくらいのおまけがあるくらいだよ」
「早速オレの個人情報が垂れ流されてるんだけど! って、違う! 違うから! そんなこと、思っていなかったから!」
うっかり肯定していることに気付いて、威吹は必死に打ち消しを繰り返す。しかし、赤い顔では説得力もない。一方、爆弾を投下した涼しい顔の張本人は、顔の近くで指を揃えた右手を立てた。
「何か、ごめんね。冗談だったんだけど、当たっちゃった?」
「せめて、それらしい顔で謝れ! こちとら死んでも繊細なお年頃なんだよ!」
憎たらしく雑な謝罪をする神奈に、羞恥心を爆発させた威吹が食ってかかった。ガキがガキで遊ぶなよ、とは陣郎の台詞だ。
「あ、そうだ、威吹君」
「何だよ! アンタ、もう余計なことは言うなよ」
「それはまた今度ね。ところで君、どうしてここにいるの?」
明日の天気は晴れかな、と呟くのと同じ軽さで、神奈は尋ねた。出し抜けの質問に、威吹が呆気に取られる。
「どうして、って……」
「獄卒の封書には経歴や事実はあっても、それに関する理由も根拠も書かれていないんだ。だから、君がここにいる訳を、ボクは知りたいんだ」
「そんなの、知らねーよ! オレは気付いたらここにいて、それで……!」
あからさまに狼狽える威吹は、それを隠そうとするように声を張り上げた。ちら、と牽制役の陣郎に視線が泳ぐ辺り、まだ冷静さを失っていない。しかし、盛んに短く呼吸を繰り返しているようでは、それも切っ掛けと時間の問題だろう。
威吹の掌がブレザーの上から脇腹を叩く。
「オレが死んだのは、これが原因だ! オレは誰かに刺された! 多分、こ、ころ、殺されたんだ……!」
ぶつけられた怒鳴り声は悲鳴のようだ。
それを喜んだ薄っぺらな気配に、陣郎の獣じみた一喝が轟く。神奈の羽織の裾に這い寄ろうとしたモノは、絢緒が容赦なく踏み潰した。
威吹の苛立つ瞳の中に否定を欲する光を見付けた神奈は、しかし、そうだよ、と静かに首肯する。
獄卒の封書を思い出す。
クリスマスと年末で世間が浮き足立つ頃。小坂威吹は帰宅途中、何者かに刺されて、失血死した。
「なあ、柳屋! 犯人はまだ捕まっていないんだろ!? なら、それが俺の心残りだ! 犯人を捕まえてくれよ! 見付けて、オレに教えてくれるだけでも良い! そうすれば――」
「そうすれば、自分と同じ目に遭わせてやる、って?」
「ッ!」
続く台詞を奪われて、威吹は息を呑む。跳ね上がった肩が図星を示していた。
神奈は構うことなく、畳みかける。
「君も身をもって分かっているだろう? 生きている普通の人間は、君が視えない。触れられない。犯人を連れて来たところで、君が直接制裁を加えることは、ほぼ不可能だ。仮にできたとして、生者に手を出した死者の末路は悲惨極まりない。理不尽に殺された上、更に自分で自分を追い込むことはしない方が良いよ」
「でも! でもアンタ達、成仏させてくれるんだろ!? オレの代わりに……!」
「ボク達に犯人を殺せ、って? 柳屋は殺人代行まで請け負わない。自分で自分の仕事を作ったら本末転倒だ。そもそも、他ならぬ幽霊の君が、それを言うの?」
当り前に続くと思っていた日常も命も、誰かの手によって、理不尽にも刈り取られてしまった。いまだこの世に留まる彼が、その心境を一番理解しているのだ。
畜生、と威吹は血が滲む唇で吐き捨てた。握り込んだ拳が震えている。気持ちを抑えようと必死に繰り返す呼吸で、肩が激しく上下していた。今まで睨み付けていた目を力一杯見張って、水の膜が張るのを堪えている。しかし、耐え切れずに、顔を俯かせてしまった。
「ねぇ、威吹君」
威吹の呼吸が整った頃、神奈が静かに呼びかけた。労るようでもなければ、宥めるようでもない。雪が降る夜のような静かな声だった。
「もう一度、聞くよ。君はどうして、ここにいるの?」
こっそり顔を拭おうとしていた威吹の動きが、ぴたりと止まった。
「四十九日の間の死者は大抵、生前、心穏やかに暮らしていた場所、家族や想い人のそばにいることが多い。ボク達が君を見付けられたのは、ご近所の噂からだ。この公園で、高校生の幽霊が出るって話だった。君は、家族のいる自宅や刺された場所、運ばれた病院にもいなかった。なのに、自宅からも学校からも遠くて、関係のなさそうなこの公園でフラフラしている。どうしてここにいるの? 理由を教えてくれないかな」
「し、知らねーよ! 気付いたらオレ、ここにいて、それで……!」
面食らったように、威吹の足が半歩引き下がる。まだ水気を含んでいる瞳が頼りなく揺れているが、神奈の追及はやまない。
「君は何を、隠しているの?」
「は、はぁ? 何、言って、るんだよ……」
全身を硬直させた彼は、ぎこちなく口を動かす。狼狽を悟られまいとしたせいか、何とか絞り出した言葉に覇気はなく、笑おうとして押し上げた口角が引き攣っている。表情が台詞に追い付いていない。
神奈は、そんな威吹を静かに見ていた。
「ボク達が君の生前の記録を知っていると知った時、君に落ち着きがなくなった。元からそんなになかったけど。ここにいる理由を尋ねた時も、君は動揺していた。言いたくない何かがあるんじゃない? 多分、威吹君の心残りと関係が」
「ねーよ、そんなもん! つーか、騒がしくて悪かったな!」
皆まで言わせずに否定した威吹は、何とか勢いだけは取り戻したらしい。対する神奈は、ふーん、と気のない相槌。先刻の詰問から一転した態度に焦ったのか、威吹の舌が鈍いながらも弁解を繰り出す。
「動揺なんかしてねーし! アンタの気のせいだ! 俺を殺した犯人を見付けること以外の心残りがあるなら、とっくにそう言ってるだろ!」
「そうかな」
「そーだよ! オレが視えるのも成仏させられるのも、アンタ達だけなんだから、オレが協力するのは当然だろ! けど、何も知らねーんだから、仕方ねーじゃんか! か、隠してもいねーぞ!」
なかば自棄で威吹は断言する。神奈は成程、と返しただけで、ひらりと羽織の裾を翻した。爪先の向かう先は、公園の出入り口だ。
「おい、柳屋!?」
「帰るよ」
戸惑う威吹を尻目に、神奈は振り返りもせず、そう返す。その間も歩みを緩めない。
「君自身がそう言うんだから仕方ない。ボク達も寒いし眠い。また来るから、その時までに人殺し以外の心残りを探しておいて」
「失礼致します」
「じゃーな」
欠伸を噛み殺しつつ、ひらひらと後ろ手を振る神奈に続き、絢緒が綺麗に頭を下げ、軽く手を上げた陣郎がさっさと後を追う。背を向けた三人との距離が自分より出入り口に近くなったところで、唖然としていた威吹は慌てた。
「ほ、本当に帰るのか!? 次はいつ来るんだ!?」
大声で潔白を訴えた手前、引き留めるには躊躇いがあるらしい。威吹の焦った声だけが縋って来る。しかし、さぁ、と首を傾げる神奈の足取りに迷いはなく、振り向きもしない。
「これでもボク達、結構忙しいんだ。まず眠い。とにかく眠い。頗(すこぶ)る眠い。温かいお布団が両手を広げてボクを待っているんだ。陣郎なんて、こんな時間なのに、お腹の虫が大合唱して、調子に乗った暴走族みたいな爆音をかましちゃっているしさ」
「そりゃあ悪かったな」
「さっきからうるさいのはそれか! あのさ、柳屋! いや、柳屋さん! 聞きたいことがあるんだけど!」
気のない態度の陣郎に叫んだ後、威吹は大声で呼びかけた。意味深長な台詞で気を引こうとしたらしい。しかし、対する神奈は歯牙にもかけない。
「あ、我が家の朝御飯の献立は、ボクには分からないよ。うちの食事は全て絢緒任せでね。食を司る御食津神様が欣喜雀躍する腕前なんだ」
「お褒め頂き光栄至極です」
「さっきから仲良いな、アンタら! つか、メシの話じゃねーよ!」
追い駆けようと踏み出す威吹だが、三歩目で諦めてしまう。それから覚悟を決めたように、羽織の背中へ叫んだ。
「柳屋! 呪いって、本当にあるのか!?」
「何だって?」
突飛な単語を聞いて、ぴたり、と神奈が足を止めた。胡乱な目で発言先を振り返る。同じく対峙する助手二人も訝しげだ。しかし、彼らの視線の先の威吹には、引き留められたことを得意がる気配はない。ぐっと、唇を真一文字に引き結んでいる。言わざるを得えなかったことに苛立ちを感じているらしい。
威吹は、徐に再び口を開くと、先刻の質問を繰り返した。
「誰かを呪うことって、本当にできるのか?」
「できるよ」
神奈の即答に、威吹が息を呑む。
「呪いが存在するのかと聞いたつもりなら、あるよ。環境、条件、方法にもよるけどね。君は誰かに呪われていたとでも言うのかな、小坂威吹君」
呪われたせいで、誰かに刺された、などと、突拍子もないことを言うつもりだろうか。嘘か真実かは別にして、威吹の言い分を正確に汲み取りたかった。
神奈が水を向けるも、彼はゆるゆると首を振るだけ。説明が上手くできない。そんな顔だった。そしてまた、口を開く。
「誰かを呪ったら、自分も呪ったことになるって、聞いたことがある。本当、なのか……?」
「『人を呪わば穴二つ』って、知っているかな。誰かの墓穴を用意すれば、同じく自分の墓穴も用意 することになるんだよ。君は、呪いをかけられたんじゃなくて、かけた方か。――……君が隠したかったのは、そのことなんだね?」
沈黙が肯定だった。観念したように、威吹は項垂れる。羞恥や憤懣の様子はない。日に焼けた顔を塗り潰しているのは後悔と焦燥、そして幾許かの安堵だった。
神奈は質問を重ねる。
「どうやって呪ったの? ヒトガタを使った? それとも、相手の髪の毛や爪を用意したのかな」
一言で、呪い、あるいは呪詛、といっても多種多様だ。一高校生が本格的な呪術に手を出せるとは思えない。しかし、部屋で寝転がりながら、即時に地球の裏側を垣間見ることができる時代。インターネットなどで、やり方を知ったのかも知れない。一種の戯れの延長のようなものだろうか。
しかし、威吹の回答は神奈の予想外だった。
「……えま、だ」
ぽつり、と威吹は答えて、顔を上げた。寒さを感じるはずもないのに、微かにその体が震えていた。
「絵馬を書いたんだ。それで、神社で掛けた」
「えま、って、絵馬か」
神奈の頭の中で、適当な漢字が引き当てられる。願いや祈りを木の板に書いて、神社や寺に奉納する、あの絵馬だ。
「どこの神社? 君が呪おうとした相手は誰かな」
「誰かを呪うなんて、まさかオレが、本当に実行するなんて、思いもしなかった」
聞こえていないのか、威吹は質問に答えない。気まずそうに視線を地面に落としている。
「自分でも卑怯で、情けねぇな、って分かっているんだ。今なら、いや、今だって、練習不足の自分が悪かったんだって思う。だけど、レギュラーを外されて自棄になった。気が晴れる、って聞いたから、絵馬を書いて、掛けた。それだけだったのに。――なあ、柳屋! 教えてくれよ!」
叫んだ威吹は、取り縋るように神奈を見た。
「オレが絵馬を掛けたから、だから刺されて、オレは死んだのか……!?」
「それは、――待って、威吹君!」
神奈の制止の声は間に合わなかった。威吹のがっしりした肩があえかにも揺らめいたかと思うと、その姿は呆気なく消えてしまった。まるで、どんな返答でも耐えられない、と言いたそうな去り方だった。
深夜の公園の中を、寒風が通り抜けて行った。
「おい、どうするんだ?」
帰るのか、探すのか。それとも、待つのか。辺りの気配を伺いながら、陣郎が簡潔に尋ねる。
どうでも良いが、この助手の顔が空腹のあまり、その辺りでひと一人、ちょっとブチ退めして来ました、といっても通じるほどの極悪人面になっている。
細く息を吐き出した後、否、と神奈は首を振った。
「あの様子だと、今日はもう現れないだろうし、出直そう。今度は本当に」
「先程も本気だったでしょうに」
「さて、どうかな」
くすり、と微笑む絢緒の指摘に、神奈は肩を竦めてはぐらかす。
頭の電灯をくるくると回転させて、警戒中のパトカーが公園前の道を走り去った。赤いテールランプが、まるで火の玉のようだった。
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