参《さん》

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参《さん》

 助手曰く、用無しの絵馬だが、いくら祈願成就しているとはいえ、書いた本人に断りもなく絵馬を持ち出すのはよろしくない。ずっと持っているのも気持ちの良いものではないし、御焚き上げよろしく、勝手に燃やして処分してやる義理もない。  縁切神社を見学し、小坂威吹が掛けた絵馬を探すついでに、神奈は陣郎と絵馬を返しに行くことにした。  縁切神社こと高草木稲荷は、住宅街の外れに位置する。  陣郎が車を停めたのは、多田八幡宮(ただはちちまんぐう)駐車場と書かれた大きな看板の近くだった。  高草木稲荷自体はそう大きな社ではなく、多田八幡宮という大きな神社の境内に鎮座、管理されている境内社(けいだいしゃ)なのだ。高草木稲荷に参拝するには、多田八幡宮の裏手にある鎮守(ちんじゅ)(もり)を突っ切らなければならない。  多田八幡宮の駐車場に車を停め、二人は銅造の一の鳥居を前に、一礼してから(くぐ)った。 (そび)え立つクロマツを横に、手水舎(ちょうずしゃ)で清めた後、LEDの赤い燈籠に挟まれた参道を歩くと社務所が見える。宮司は常駐していない、と絢緒が言っていた通り、今は人の気配がない。神職不足はどこも深刻だ。季節になると、近所の氏子達が集まり、代表である氏子総代が祭りの相談や新年の準備を取り仕切ることになる。酸性雨で大分溶けてしまった狛犬の石造を通りすぎ、一礼の後、二の鳥居を(くぐ)って石の階段を上ると、玉砂利を敷き詰めた境内が広がっている。入母屋造(いりもやづくり)の屋根の下、彫り付けられた極彩色の竜が印象的だ。  賽銭箱の前で二礼二拍手一礼をし、神奈達は裏手にある高草木稲荷に向かった。  石畳で舗装された小路(こうじ)は常緑樹の葉に遮られて薄暗く、差し込む日の光は弱い。  神奈の目には、並び立つ木の幹の間から、ちらちらとこちらを伺っているものが映っていた。物珍しさに惹かれているだけで、悪意も害意もない。しかし、あまり見ていたいものではない。陣郎が目を光らせているのも大きいらしく、一定以上の距離から近付いて来ない。夜中に一人きりで通りたい道ではないことは確かだ。  高草木稲荷は常緑樹にぐるりと囲まれて、少し拓けたところに鎮座していた。  神奈の視界を埋めたのは、朱だ。数えきれないほどの朱色の鳥居が隙間なく一列に並んでいる。まるで朱のトンネルだった。  小路はそのまま参道として、LEDの赤い燈籠の間を通り、入母屋造の拝殿へと延びている。二人は石造りの大きな一の鳥居の前で一礼した後、続く朱のトンネルを、陣郎だけは前に体を倒して通り抜けた。彼がやっと(くぐ)れるほどの高さしかなかったのだ。  縁切の単語のせいで、空気の淀みまくったおどろおどろしい神社を想像していたが、こぢんまりとした境内は拍子抜けするほど、綺麗に掃き清められている。  神奈は拝殿に向かって二拝二拍手一礼した後、半歩分後ろにいる助手を、訝しそうに仰ぎ見た。 「陣郎、どうかした?」  眉間に皺を寄せる陣郎は、賽銭箱に向かってすぐ左手、拝殿を支える太い柱を見ている。 「お前が言っていただろ? 逆恨みで社殿にも釘を打ち込むことがあったって。あれとか、その跡かと思ってな」 「五寸釘にしちゃ、大きくない?」  彼の視線を辿った先には、親指の長さほどの縦に走る裂傷。明らかに刃物の(たぐい)だ。 「さっきから何を気にしているのさ?」  鳥居のトンネルを前にした辺りから、陣郎に落ち着きがない。苛立ってもいるようだ。 「こっちを見ている奴らがいる、んだが……」  何とも煮え切らない返事だった。陣郎自身も良く分かっていないようで、金の瞳だけを盛んに動かして、辺りを警戒しては首を傾げている。 「どうも悪さをする感じじゃねぇな。姿を見せねぇくせに、近くをウロチョロするだけで、遠巻きに俺達を伺っていやがる。何がしてぇんだか」 「いつもの塵芥(ちりあくた)ではなく? 君のファンとか?」 「阿呆か。それに何だかこの場所、妙な感じがする」  鋭く光る陣郎の目が、今度は目前の拝殿の奥を見据えた。  それに(なら)って神奈も拝殿をじっと視るが、御扉(みとびら)の格子の隙間から、薄暗さが覗くばかりだ。辺りを見回しても、鳥居が沢山並んでいる境内というだけで、特に違和感はない。何も視えない。隠れているのか。  もっと良く視ようとしたところで、さっさと用を済ませろ、と陣郎に横から小突かれた。察知は得意でも、分析は苦手な彼は、高草木稲荷から早々に退散することを優先したらしい。追及を諦めて、神奈は絵馬掛けに足を向けた。  絵馬掛けは探すまでもなく、鳥居を(くぐ)った時から、既に目についていた。  黒い屋根を(かぶ)せた絵馬掛けにぶら下がっているのは、(おびただ)しい数の絵馬だ。一つのフックに十は絵馬が掛けてあって、鉄のフックが変形するほど、見事に鈴生(すずな)りだった。場所が見当たらずに掛けられなかった絵馬は、屋根の下の(はり)(くく)り付けられていたり、他の絵馬の紐に無理矢理括ってぶら下げられていたりする。  そのうち、絵馬の、というか妄念(もうねん)の重さに負けて、絵馬掛けの柱が根本からバッキリと折れるに違いない、と神奈は思った。ちなみに、柱は朱色に塗装されたステンレス製だ。人間の念、恐るべし。  縁切神社と名高いだけあって、絵馬の内容も、なかなかえげつない。名指しで死を願うのは、まだ分かる。実行は無理だが、理解はできる。だが、絵馬に呪いたい相手の写真を張り付けて、黒く塗り潰してみたり、その顔が見えなくなるほど、まち針で刺してみたり。  ひたすら『死ね』だの『殺す』だのを、米粒大の文字で絵馬一杯に書き並べてあるのは、神奈もちょっと閉口する。そもそもお願いではないし、縁を切る相手も特定できない。願いを聞き届ける神様も、これには辟易(へきえき)するだろう。神様パワーでそこは頑張って、という丸投げだろうか。成程、最近の神様も結構辛い。  今ここでの二人の目的は、小坂威吹が掛けた絵馬を探し出すこと。それは十分に分かっているのだが、絵馬による視界の暴力で、神奈のやる気はゴリゴリと音を立てて削られていっている。隣の陣郎に至っては盛大に顔を顰めていて、ちょっとどころではなく、おっかない顔だ。  絵馬掛けを大雑把に区切って、上半分は背の高い助手に任せ、神奈は自分の目の高さから下を探すことにした。  絵馬と対峙して、(およ)そ二十分が経った頃。 「あ」 中腰の神奈が小さく声を上げた。すかさず陣郎が腰を曲げて覗き込んで来る。 神奈の(もも)の辺りに垂れ下がった断酒祈願の絵馬の下に、目的の物はあった。この高さでは、確かに絢緒の身長では見付け難いだろう。雨風に晒されて少し黒っぽくなった絵馬に、角張った文字が二列に並んでいた。 『赤苑高校サッカー部レギュラーの新田幸助(にったこうすけ)が 足を怪我しますように』  小坂威吹の出身高校名と所属していた部、そしてレギュラーの単語。署名はなかったが、昨夜の威吹の言動からして、恐らくこれだろう。  フックから外して手に取れば、神奈の口から、気の抜けたような小さな吐息が漏れる。成分の内訳で最も割合を占めていたのは、憐みだろうか。  誰かを害することへの祈願は、決して良いこととは言えない。しかし、悪いことでもないはずだ。救われたい、少しだけでも呼吸をしやすくしたいという願いに、死んでも苦しまなければならない非はないだろう。  威吹は今、自分が掛けた絵馬のせいで、罪悪感の墓穴にいる。  神奈は羽織の下に着込んだコートに、見付けた絵馬を仕舞い込んだ。威吹に確認次第、即刻処分することにする。あんなに後悔していたくらいだ。嫌がることはないだろう。  代わりに引っ張り出したのは、絢緒が持ち帰った、威吹を呪った絵馬だ。それをフックに掛けようとして、ふと神奈は手を止めた。 「おい、どうした?」  辺りの警戒を解いていない陣郎が、こちらを訝しんでいる。神奈は答えず、跳ねるように立ち上がると、爪先立ちで絵馬掛けに伸し掛かかった。先刻まで見ていた絵馬を、今度は食い入るように見始める。いくつも重なった絵馬は一体ずつ(めく)り、目に留まったものを片っ端からフックから外していく。 「おい、どうした? 何かあったのか?」  察した陣郎が体を起こし、再び尋ねた。そんな助手に、神奈は手にした絵馬を全て投げ渡す。 「君も手伝って。持って来た絵馬と同じ筆跡のものを探すんだ」 「はあ? おい、何だってーんだ?」  咄嗟(とっさ)に受け取った陣郎が、更に説明を求めた。神奈はそれどころではなく、必死に目と手を動かす。内容に目を通すこともなく、絵馬を、正確にはそこに書き付けられた文字を確かめる。持って来た絵馬にあったのは、丸っこい、しかし固い字体だ。 「その絵馬全部、威吹君を呪った絵馬と筆跡が同じなんだよ。一人の人間がそれだけの絵馬を書いて、掛けた。全部見付けなくちゃ」 「はあ!? これ、まだあるのか!?」  手の中の絵馬を見て、陣郎は声を上げた。軽く十体は越えている。それから短く息を吐き出すと、神奈と同様、一巡した絵馬を再び見直し始めた。  そして、絵馬掛けを大凡(おおよそ)見尽くした頃、二人は絶句することになる。  じっとりした冷や汗が肌に浮かび、神奈に至っては、自分でも口の端が引き攣ったのが分かったくらいだ。途中、陣郎の手から溢れた絵馬は地面に置かれたのだが、それが今や、小さな山を作っていた。絵馬の数は、ざっと四十体以上。 「凄ぇ執念だな。ここまで来ると、流石にドン引きだ」 「ボク、呆れや感心を通り越して、無の境地に至れそうだよ」  板がまだ白っぽくて真新しいものから、日に焼けて油性マジックの文字が浮き上がっているものまで、掛けられた時期は様々の絵馬。どれも同じ字体で、違う内容の祈願が書かれていた。 『両手の指が 折れますように』 『顔に硫酸を 被りますように』 『誰からも無視されて 蔑まれて 嫌われますように』  一体だけでも悪意が(あふ)れているのに、四十体以上ともなれば、醜悪さしかない。相手への呪わしさに、いっそ純粋ささえ感じられる。  そして、神奈の持って来た絵馬に書かれた、お願い。 『小坂威吹が 死にますように』  この絵馬は、同一人物が書いたうちの一体だ。 「具体的な分、逆にえげつなさを感じるな」 「この絵馬を書いた人、誰かを苦しませるために、威吹君を呪ったんだ」  神奈は座り込み、懐からデジタルカメラを取り出した。絵馬を一体、地面に置き、カメラを構えてピントを合わせる。 「他の絵馬を見る限り、特定の人物を呪っているのは明らか。その人がよっぽど嫌いなんだろう。全て違う、具体的な内容を書いている。まるでじわじわと追い詰めて、いたぶるみたいに。その一つとして、威吹君の死を祈願したんだ」 「じゃあ、その特定の人物とやらは、小坂威吹の身近な人間、ってことだな」 しっかしまぁ、と陣郎は呆れとも哀れみともつかない溜息を吐いた。 「あいつ、とばっちりであんな絵馬を掛けられたのかよ。良い迷惑だな。……で、一応聞くが、お前は何をしていやがるんだ」  神奈の人差し指でカメラのボタンを押せば、ピピッ、と軽い電子音の後、フラッシュの光に包まれた。出来を確認し、次の絵馬へ手を伸ばす。  声と同じくらい呆れた目で、陣郎が見下ろしているのだろう。見なくてもその様子を確信している神奈は、顔も上げない。 「()いて言えば、盗撮?」 「間違っちゃいねぇけどな。つーか、撮るなよ、そんな胸糞悪ィもの」 「じゃあこれ、全部持って帰る?」 「何でだよ! 行きより帰りに絵馬が増えているって、おかしいだろうが。さっさと終わらせるぞ、ったく」  ぶつくさ言いながらも、陣郎は隣に腰を下ろす。絵馬の山から一体手に取っては、神奈の前に置き、撮影を終えた絵馬を山に戻す。結構人が好い、いや妖が好いのだった。  漸く神奈が全ての写真撮影を終えると、待っていましたとばかりに助手が後ろ襟をむんずと掴み上げた。抗議する間もなく、そのまま高草木稲荷からさっさと連れ出そうとする。食い込む前襟を防ごうと爪先で下手なステップを披露していると、気付いた陣郎が神奈の腹に腕をぐるりと回して、小脇に抱え上げた。  これはまるで、駄々を捏ねた子供と、実力行使で連れ帰る父親である。  ちっとも嬉しくない、と膨れっ面の神奈は、足をプラプラと揺らして、運ばれるがまま。  呪いだの絵馬だのと、インターネットにも取り上げられているが、これだけ清められた神社は聖域だ。当然、奸邪(かんじゃ)の気配などあるはずもない。しかし、陣郎の嗅覚は是としなかったのだ。番犬として、万が一に備えて退却するらしい。  大股の陣郎が鳥居を(くぐ)り抜けたとき、神奈はこう草木稲荷を首だけで振り返った。  やはり、不自然なものはいない。澄んだ空気の中、赤い鳥居の行列で、拝殿が鎮座しているだけだった。
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