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孝平は、昨日から何度か耳にしたその曲を歌う響子の姿を、ただ、驚いたように眺めていた。
「それ、先輩の曲だったんですか」
歌い終え、満足そうな表情の響子に孝平は聞いた。
「そうよ。作詞作曲、私。編曲、私。演奏、私。歌も私。えぇと、それから…」
「いえ、もういいです。よくわかりました」
響子の言葉を遮る孝平の、心の中にあった疑問がひとつ、氷解した。村の子供たちや真由美が歌っていたのは、響子の書いたこの曲だったのだ。
どおりで、有線などでも流れていない筈である。
「いい曲でしょ。私のお気に入りなの」
微笑む響子の前に、マスターがコーヒーカップを静かに置く。
自分の前にも同じように置かれたコーヒーを飲んでいいものかどうか考えあぐねている孝平に、響子は一言、「飲んでいいよ」と告げた。
「ねぇ、先輩」
そのコーヒーを半分ほど飲んだところで、孝平は思い切って尋ねた。
「先輩は、その、オーディションに受かって、それからどうしたんですか?プロの歌手に、なれたんじゃないんですか?」
「んー、そうねぇ…」
ティースプーンでカップの中をグルグルとかきまぜつつ、響子は言葉を選びながら、ゆっくりと喋りだした。
「オーディションに合格して、レコード会社との契約のために私は東京へ行ったわ。空いた時間で住む部屋を探したりもして…。あの時の私は、長年の夢が叶って有頂天だった」
思い出を辿るかのように、響子は目線を上に向けて語り続ける。
「でも、私も甘かったのね。私は、私の歌が歌いたかったのに…、契約の代償として渡されたのは、知らない人が書いた知らない曲だった。それが現実だった。試しにレコーディングもさせてもらったけど、ダメ。全然、歌に気持ちが入らなかったの」
コーヒーを飲む手を止め、孝平は響子の話に聞き入った。
「だから私は、結局ね、契約もせずにこの村に帰ってきたの。せっかく、夢に手が届きかけたのにね。今にして思えば、私はその時に…、夢からも、現実からも、逃げ出しちゃったのかもしれない」
窓の外に広がる村の風景を眺める響子の横顔に、孝平はかけるべき言葉が見当たらなかった。
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