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始まりの日
オレンジ色に染まった空が、ゆっくりと色を失って、薄紫に彩りを変える頃。あの人は、コンビニのドアを開ける。
名前も知らない、大学生くらいのお客様。
「いらっしゃいませー」
店内に響くもう一人のバイトの声が、いつもよりワントーン高く聞こえるのは、きっと気のせいじゃない。アタシも少し遅れてそれに続いた。極力、いつものテンションで。
きれいに色を落とした髪の色が、店内を明るく染める。
スラッとしていて、均整の取れた体格。
つってもいない、垂れてもいない、バランスのいい目の形。高すぎず、低すぎず、目立たない鼻筋に、笑顔に見える形の唇。
金の髪は、くしゅっとした天然のもの。羨ましいくらいに柔らかい。
……何か、ムカツク。
だけど、そんなことを考えているのは、アタシだけで。店内にいる女の子は、お客様も店員も、彼に釘づけだ。
夕方からバイトに入っている女の子も、時間が合えば、彼のことを見に来る子がいるくらい。そこまでしなくてもって、アタシは思うけど、彼と知り合いになりたい女の子たちは、少しでもきっかけになればと一生懸命頑張っている。
アタシにはまったく理解できないけど、彼の人気はお客様という枠にあてはまらないくらいに高い。まるで、お手軽なモデルみたいだ。
「由佳ぁ、来たよ、あのお客さん」
うっとりした声で、アタシに話しかけてくるのは、今日のシフトが一緒になった瀬上美帆。アタシが知る限り、一番彼に心酔している。
「タイミングが合えば、美帆にレジを譲るよ」
彼のレジ打ちはかなりの激戦。混んでいなければ、レジを譲るアタシは、夕方からのバイトに限ってはかなり喜ばれる。
レジの相手をしたくらいで、何が変わるのかは分からないし。彼に対して、全く興味のないアタシからすれば、争ってまでレジを打ちたい気持ちが、全然分からない。一生懸命レジ打ちしたって、お客様からすれば、よくいるバイトの女の子くらいの認識を持ってもらえるくらいじゃないかなって思うんだけど。
好きな男の子に振り向いて欲しいって思うときのバイタリティーは本当にすごくて、ほんの少しのチャンスでも活かそうとする。アタシは、そういう気持ちがカケラほどもないから、圧倒されてしまうんだ。
友達の恋を応援したことはあるけど、そこまで一生懸命になったこと、まだない気がする。運動部で活躍する先輩がちょっとかっこいいなとか、あの男子感じいいなとか、その程度で。
だけど、好きな人がお客様だったら、お客様と従業員の壁が越えられなくて、気持ちを伝えられないままに終わってしまいそう。逆なら、もしかしたら、あるのかもしれないけど……。
「由佳だけだよぉ、そんなこと言ってくれるの」
「混んでるときだとうまくできないかもしんないけど、そのときはごめんね」
「いいよ、そんなのー。他の子とだったら、戦争だもんっ」
子どもっぽいところがある美帆は、アタシと同じ年には見えない。まるで、妹みたいな気持ちになってしまう。
ちょっと夢見がちなところがあって、ふんわりしてて、かわいくて。わがままなとこがあっても、何だか許せてしまう。甘えているのが、何だか似合うようなタイプ。
普通の男の子だったら、きっとこういう子が好きなんだろうな。女である私が見たって、かわいいって思えるくらいなんだから。
作戦だとか、演技だとかって、美帆のことを嫌う女の子がいないわけじゃないけど。例え、それが本当だとしても、アタシには絶対にできないことだし。自分の好感を上げるためだけに、自分を偽ることって、すごくストレスが溜まることだと思うから、ある意味すごいことだと思うけどな。
「頑張って、名前くらいは覚えてもらうんだよ?」
「うん、ありがとう!」
彼が来たら、必ずシフトのことする会話なのに、美帆は本当に嬉しそうにうなずいた。
その素直な態度が心に痛い。美帆だけにしているわけじゃない。みんなにしてることだから。
彼を回避するように、レジを回すことに専念する。不自然にならないように、調整しながら。
美帆にレジをさせてあげたいっていう気持ちもあるんだけど。どっちかっていうと、アタシが彼のレジをしたくないっていう気持ちの方が、実は強かったりする。
アタシは彼が好きじゃない。何かされたわけではないし。というより、何かされるほどの接点は一度もない。
それでも、今まで彼のことを避けてきた。レジでの会計という接点でさえ……。
彼の持つキラキラとした雰囲気が、本当に苦手。叶うなら、関わり合いにはなりたくないし、接客だってしたくない。
それで、お金もらってるんでしょ。
そう思われるかもしれないけど、店員だって人間である以上、好きな相手もいれば、嫌いな相手もいる。それと同じように、進んでレジをしたいお客様もいれば、絶対にしたくないお客様だっているんだ。
だから、同じシフトに入っている子が接客をしてくれることに感謝していた。彼に気に入られたいと思う女の子と。彼を接客したくないアタシと。利害は一致していたのかもしれない。
だけど、今日に限って、レジはいつも以上に混んでいて、関わり合いになりたくないのに、アタシのところに来てしまう。
元々、ベッドタウンに建つこのコンビニ周辺は、お昼よりも夕方から夜にかけて人口が多い。アタシがシフトに入る時間は、特に帰宅する人が多くて、晩ご飯や軽食だけじゃなくて、お酒やおつまみを買いに来るから、客単価も高いし、荷物も多い。だから、うまく調節しているつもりでも、うまくいかないときもある。今回もうまくレジをしているつもりだったんだけど、それが叶わなくなってしまった。
美帆の方に行ったお客様の注文したレジ内の商品の品目が多かったこと。カゴの中にもたくさんの商品が詰め込まれていて、袋詰めに時間がかかったこと。
お客様がお金を出すのにも手間取っていた。小銭をため込んでいるお客様には、割と多いこの現象。普段は大きいお金だけ出して、小銭が増えてきてジャマになってくると、細かいお金で買い物をする。特に、男性のお客様に多いパターンでもある。美帆がレジをしていたのも、中高年くらいの男性のお客様。確かにやりかねない。
アタシのところに来たお客様の持ってきた商品は、カゴに入れるまでもないくらいに少なかったこと。カバンの中もきれいにしている女性だったからか、財布の中もすっきりしていて、お金の受け渡しもスムーズで、袋詰めの必要ないと断りがあっで。
タイミング悪く空いたアタシのレジにやってきた彼を見て、「あーあ」って思ったときにはもう遅くて。心の中で「ごめんね」って言いながら、笑顔を張り付けた。
「いらっしゃいませ、お待たせいたしました」
近くで見る彼は、やっぱりキラキラしていて、好きになれそうにない。何か、自分とは違う世界の人みたい。
新発売のスナック菓子、新発売のカップラーメン、季節限定の発泡酒、コンビニ限定フレーバーのアイスクリーム。若い男性のお客様がよく買うスナック菓子とカップラーメンという組み合わせが、キラキラした雰囲気には何だか似合わなくて、ちぐはぐな印象を受ける。
こんなものを食べているのに、よくこんなに痩せているなあって、どうでもいいことを考えながら、いつものレジ対応をしていた。
カゴの底には、週刊マンガ誌が数冊。少年誌と青年誌を同時に購入するお客様は多いから、よくある組み合わせだなって思う。
この人は、雑誌を買うのが目的で、食べ物はついでにすぎないのかもしれない。雑誌を買いに来たら、何か気になるものが出てたから、買って帰ろう。そういうノリ。
商品はキレイに袋詰めして、お金を受け取って、「レシートはよろしいですか」とマニュアル通りに伝える。パートのおばさんたちからは、応用力がないとか、どういうお客さんか見極めないとって言われるけど。一回レシートをもらっていないって苦情を受けてから、神経質になっていた。苦情が恐いから、レシートを渡さなきゃ。渡す努力をしなきゃ。もう、苦情を入れられたくない……。
思い詰めたまま、いつも同じ接客を繰り返している。だけど、それが通用しない人もいる。
「あげるよ」
思ったより高めの、優しい声。作ったわけではない、温かみのある笑顔。
「え……」
言っている意味が飲み込めなくて、掠れた声が出る。ごめんなさい、意味が分からないんですけど。その気持ちを隠すことができなくて、顔に出ているような気がする。一生懸命、笑顔を浮かべるけど、絶対に自然には笑えていないはず。
「だから、あげるよ。俺、いらないから」
そんなアタシとは正反対で、お兄さんは自然な笑顔を浮かべているまま。
「いえ、アタシもいらないです」
普通に考えれば、レシートが必要ないから捨てておいてという意味だったんだろうけど、それを理解する余裕がまったくなかった。
人のレシートをもらったって、補充するホットドリンクの種類をメモするくらいの使い道しかないし。今の季節、ホットドリンクなんて、ほとんど必要ないし。
彼の買ったものを知りたいわけでもないし。というか、今自分でレジしたから知ってるし。もらったって、どうしようもない。
「だよねー」
にこにこと笑う彼をみて、からかわれたんだっていうことに気付いた。もしかしたら、アタシの反応が悪くて、和ませようとしたのかもしれないけど。アタシにその理由を知ることなんてできるわけがない。
カーッと顔が熱くなって、恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。作り笑顔でもいい、表情を作ろうとするけど、どんな顔をしているのかさえ分からなかった。
男性のお客様はレシートをいらないっていう人が多いけど、こんな断り方をされるなんて……。
「じゃあ、捨てておきますねっ」
アタシは慌てていたけど、自分の動揺を気付かれないようにしないといけないと思って、平静を保ったふりをしながら、レシートを捨てようとする。自分では取り繕っているつもりだったけど、お兄さんからすればすごく分かりやすかったみたいで。
「そんなに慌てなくてもいいのに」
その声は元の優しい声に、さらに優しさを上乗せしたような声で、すごく温かさを感じる。
「またね」と笑いながらさっそうと店を後にするその姿は、お世辞を抜いてもかっこよかった。
(またねって何なのよっ)
深い苛立ちが、アタシの心の中を占拠する。だけど、それを顔に出すことはできなくて、次に並んだお客様に向かって、作り笑顔を張り付けた。
「いらっしゃいませ、お待たせしました」
その声はいつものアタシの声。だけど、不安が波のように押し寄せてくる。まだ動揺した顔をしているんじゃないかって、つい考えてしまう。
アタシのことを見ることはできないし、レジが混んでる今は確認できないし。本当は今すぐ事務所かトイレに駆け込んで、鏡で自分の顔を見たいよ。じゃないと落ちつかない。
今きちんと笑っているのか、泣きそうな顔をしているのか、それとも不機嫌な顔をしているのか。そのせいで、お客様に不愉快な思いをさせていないか、そのせいで苦情が来ないか、気になってしかたないの。
だけど、夕方のラッシュっていうのは波が落ちつくまでにすごく時間がかかる。全然お客様が来ないよりはいいんだけど、今はそれが恨めしい。
心は動揺しているはずなのに、なぜかレジを打っているアタシはどこか冷静で。機械的にレジを打ち、金額を伝え、弁当を温めて、レジ内の商品を取り扱い、袋詰めをして、お金の受け渡しをする。その一連の作業をきちんとこなしていた。
だけど、アタシはこの波が引いた後、知ることになる。あの接客の後が暇だった方が、実は大変だったんじゃないかって。
忙しさと自分の動揺でいっぱいになっていて、近くにいる美帆のことを忘れていた。レンジで商品を温めている間に、チラッとやり取りを見ているなんて、思わなかったから。
お客様の波が引いて、少し落ち着いてから、テンションが高くなった美帆が話しかけてきた。
「由佳ぁ、見ちゃったよー。見ちゃったんだよっ」
「何を?」
楽しそうに笑う美帆の言葉に心当たりはない。その頃には、少し落ちついていて、お兄さんとの会話のことを記憶の片隅に追いやることができていたのに。
恋する女の子のバイタリティーを侮ってはいけなかったんだ。
「お兄さんと会話してたの見ちゃったよー」
好奇心をむき出しにした美帆に言われて、初めて気付いた。あのときのことだと。
「あ、レシートのことかな?」
「え、レシート? レシートって何? 名前聞いてくれたんじゃないの?」
高めの声がワントーン下がったのは気のせいではない。でも、レジで初めて言葉を交わした相手の名前を聞くような真似はアタシにはできないし、正直興味もない。
「レシート渡そうとしたら、『あげるよ』とか言われて意味分かんなくて」
とりあえず事実を話してはみるけど、美帆は聞こえるか聞こえないくらいの声で「ふーん」と興味なさそうな返事をした後、首をかしげる。ワザとらしいとは思うけど、かわいく見えるのは、本当に見目がいいからだろう。
「そんな話初めて聞いたよー。レシートはいらないって、いつもは手で合図するヒトなんだよ」
てのひらを前に出すようなしぐさはお兄さんのマネなんだろうけど。見たことがないから、よく分からない。
「え、ほんとに?」
「こんなことでウソついたって、美帆には何のメリットもないよ」
笑いながら、美帆はまた首をかしげた。
アタシは意味が分からなくなって、少し混乱したけど、謎のテンションになった美帆の話をずっと聞くことになった。
こういう商品を買うだとか、こういうフレーバーのものが好きとか、香水がいい匂いだとか、服のセンスがいいとか。正直どうでもいい情報。アタシには、本当に関係ない。このときは、そう思っていた。
だけど、嬉しそうに語る美帆がかわいくて、相槌を打ちながら、話を聞き続ける。話題の中には、コンビニの接客で分かるのか疑うこともあったけど、それは気付かなかったふりをしておいたほうがいいよね。
だけど、この日からアタシの日常はガラリと変わってしまう。それは、アタシにとっていいことだったのか、そうでなかったのか、今はまだ分からない。
「仕事しなさい、仕事!!」
深夜のベテランバイト篠崎さんに怒られるまで、アタシたちはお兄さんの話をずっとしていたのだった。
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