プロローグ

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 その日のことは、よく覚えている。浩々たる月が星の無い夜空に浮かぶ、寒く、静かな夜だった。  俺はぼんやりと窓の外を眺めながら、もはや感覚もなくなった身体を後ろから揺すぶられていた。ベッドの上で、枕を掴む力さえ無く、ただ、腰を掴まれているから体勢を保っている。俺の背後から、荒い息を吐きながら腰を振る人は、急に短い呻き声を漏らすと動きを止め、その後で漸く俺の腰を離した。  俺の下肢が、久方ぶりにシーツに触れる。冷たくて、心地が良かった。 「やはりお前はそうしている時が、一番美しい」  そんな声を聞いた気がする。俺は少しだけ頭を動かして、知らぬ間に掻いていた汗を拭った。指一本動かすのさえ億劫な疲労感。下肢に感じた、不快な感覚。太腿に纏わりついた粘り気のある液体がシーツを汚す前に、俺は何とか身体を動かし、ベッドから降りる。  床に両膝をついて、脚に力が戻るまでの間に、 「……ありがとうございました」  俺は命じられた言葉を口にした。こういう夜の最後には必ず言うように、と随分前に言い付けられている。今日もちゃんと、覚えている。  その人は満足そうに頷くと、俺の頭を、驚くくらい優しい手つきで撫でた。  よく頑張ったな、と。言われたような。  温かさと愛情を錯覚する。俺はこの手が苦手だったし、同時に、この手に縋っていた。いけないことだと知りながら、この人以外に帰る場所を知らないから。  俺はふらりと立ち上がり、傍に落ちていた自分の服を身につけてからこの部屋を後にする。ドアノブに手を掛けた時、その人はいつもと同じ声で、俺に「おやすみ」と声をかけた。 「……おやすみなさい、院長先生」  その言葉と共に、寒い廊下へ滑り出る。
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