僕の記憶。

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僕の記憶。

大翔(ひろと)さん、コーヒー淹れましょうか?」 そう僕に訊ねて来てくれた声はいつもと変わりなく、明るく溌剌としていた。その明るく溌剌とした声をあえて物に例えるならそれは朝採れの瑞々しいオレンジだと僕は思う。そして、その明るく溌剌とした朝採れの瑞々しいオレンジの声に僕はいつも元気を貰う。 「お願いします。ホットが…いいな」 僕はその有り難い申し出に笑んで答えて開いていた古い文庫本に誰かが作ったであろう手作りの栞を差し込み、そのページを閉じる前にその栞に封じられた小さな四つ葉のクローバーをラミネートの上から撫でて手作りならではの温かみに触れ、笑んでいた。 手作りの物はどんな物でもいいと思う。この世界に一つだけの愛嬌と歪さがあって僕は好きだ。(歪さ…と、言うと聞こえは悪いけれど、その不完全さがいい。この栞で言う歪さは四つ葉のクローバーの背後に入れられた水色の折り紙が微妙にズレて切られ、歪んでいるところだ) 僕は古い文庫本を閉じ、その有り難い申し出をしてきてくれた斎藤(さいとう) (あや)さんをゆっくりと振り返って見つめた。 「了解です! ちょっと待ってて下さいね? すぐに淹れますから!」 僕から答えを聞いた彩さんは尖った八重歯を唇の間からちらりと覗かせて笑むとダイニングからキッチンへと移動し、コーヒーの準備をはじめた。 コーヒーの準備をする彩さんを僕は振り返ったまま目で追っていたらしく僕のその視線は不意に彩さんの視線とぶつかり、一点で重なった。不意に互いの視線がぶつかり、一点で重なり合った僕たちはどちらからともなくクスクスと笑いだしていた。 「彩さん…その…いつも本当に…ありがとうございます」 僕は照れながらそう言って彩さんにぺこりと頭を下げ、それと同時に気持ちがスッとなるのを感じていた。 『いつも本当にありがとう』 それは本当にいつも思っていることだ。それなのに僕はなぜだかその一言をなかなか彩さんに伝えることができずにいた。それはまるで思春期の男の子が好きな女の子に素直になれないかのように…。 けれど、今日は照れ臭いながらもなんとか本当の僕の気持ちを伝えられた。 僕はまた一つ、素晴らしい進歩を遂げたわけだ。
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