第四話  暁に乾杯!

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 1・(誘拐)  其れは命懸けの訓練だった。  あの頃を時々、夢に見ることが在る。  脱出する為の技を、マンツーマンの授業で授けてくれた女。  だが女は教官では無く、飛びぬけて優秀と言われていた現役の潜入捜査官だった。  山田文子という名前も、本名などでは無いのだろう。だが、そこは夏子も同じ。  もっとも文子の方は、年齢も定かでは無かった。  「良いわね。明日までに全てのテクニックを頭に入れなさい。明日からゲレンデでの訓練を三日間します」  スキーなど一度もしたことは無いが、脱出に必要なら是が非でも身に着けねば、命に係わる。  「私が訓えられる事を、何一つ取り落とさずに受け取りなさい。終わったら、山の中で実際の訓練に入る予定です」  「一週間しかありませんよ」  言葉通りの訓練だった。  文子の訓練がキツイのは、当時のマトリ内では有名だった。  実際的な文子の容赦のない訓練に付いていけず、止めて行った捜査官もあまた居る。  訓練が決まった初日。  文子が微笑んで夏子に言った言葉!  「アタシが教えるのは、麻薬組織にバレて逃げる時の技の数々。奴らに容赦はない」  「訓練にしくじって怪我をしても、今は病院に運ばれて治療して貰える。でも麻薬組織の奴らが相手の時は、間違いなく殺される。然も、嬲り殺しにされるでしょうね」  微笑みを浮かべて言う内容では無いが、彼女は何時も敢えて、そうした表情を作って話しをする。  【ドライアイスの文子】、あの頃の彼女はマトリの皆にそう呼ばれていた。  だが、夏子は別に何も感じなかった。  嬲り殺しにする時は、相手が若い女となったら、野獣どもが最初に遣ることは決まっている。  「死んだ方がましだ」  夏子の呟きを耳にして、一瞬だけ文子の眼が光った。  あの時、夏子は二十九歳だった。  清次に出会う二年ほど前の事だ。  冬は山スキーで賑わうお金持ちの別荘の一つに潜入捜査を掛けると決まった時に、チームリーダーが用意してくれた訓練。  結局は文子の訓練のおかげで、山スキーの技を遣い間一髪の脱出に成功した夏子。死と隣り合わせの危ない捜査だった。  あの時の麻薬組織の首魁は、追い縋るマトリを振り切って、辛くも海外に逃れた。  マトリの大黒星。
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