まえがき

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 お江戸の昔には、防火用の火除け地だった土地は明治の御一新を迎えて、西洋式の庭園へと生まれ変わった。  “西洋諸国に文明開化を知らしめる為”、とは表向きの理由。  大名屋敷や旗本のお屋敷の庭仕事が一気に無くなり、職にあぶれた植木職人や鳶職の救済が急務だった明治政府のお役人が、慌てて造ったもの。  他にも、沢山造った。  お金の無い政府はその公園の一つを、管理その他一切全ての責任を含めて、口入れ屋の黒津組に丸投げして押し付けたのだった。  明治時代には、華族様のお気に入りだったその公園は、大正の世に為って、モガやモボのお気に入りとなり、華やかな雰囲気を撒き散らして存在し続けた。  公園の真中にある、トルコブルーのタイルで彩られた底浅の池も、池のシンボルの小便小僧も、造られた頃と変わらず人々のお気に入りだった。  だが、軈てその池と小便小僧は、池を取り囲む芝生や多くの恋を育んだ庭園の薔薇、周りを取り囲む緑の木々と共に、空襲の洗礼を受けて消失した。  然し地域の人々は、復興の努力と協力を惜しまなかった。  昔より一回り小さくは為ったものの、真中にはトルコブルーのタイル張りの池と噴水、小便小僧もチャンと戻って来た。  平成になっても、やはりご地域の盆踊り大会があったり、子供達の歓声や笑い声に包まれる。夏休みの虫捕りで賑ったりして、ご地域の皆さんのお気に入りとなって、今もそこに在る。  管理は東京都の手に移ったものの、ご地域の皆さまの頼みで、公園のお世話と安全は今でも黒津組の手に委ねられて居た。  「極道ってのは、昔っからそうしたもんだよ。ご地域の皆さんと黒津組は、支え合って生きているんだからな」  それが黒津組の先代の遺志。
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