序章『約束』

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序章『約束』

 群青色のマントが、宵闇を駆け上がった。風を切り、息を切らしながら燃え上がる町を、縫うように走る。  どんよりとした分厚い雲が、灰色の天井のようにこの世界を覆っている。絶えず鳴り響く雷の中を、黒い翼が無数に飛んでいるのを、走りながらこの青年──セスナは、捉えた。  ふと目を前にやると、瓦礫の山となった広場に人が集まっているのを見つけた。彼らは、空を舞う黒い翼から身を隠すように、身を寄せて縮こまっていた。  セスナは、彼らに駆け寄って絞り出すように叫んだ。 「ハルト……、ハルトはどこだ!」 「シルヘン国王子!?」  王子と呼ばれたのは、齢十八の端麗な顔つきをしたセスナのことである。だが彼は王子ではなく、既に国王の位にいることを、彼らは知らない。その理由を、荒れたこの空を舞う黒い翼が、何を言うともなく、物語っていた。  セスナは、滲み出る冷や汗に首元を濡らしながら、赤く濡れた頬を震わせた。 「時間がないんだ! ジェレイドはもう落とされた。このままでは、本当に人類は滅びる! ハルトの居場所を教えてくれ!」  セスナは男の肩を掴んだ。そのただならぬ雰囲気に、彼は身をすくませた。肩を掴むその腕からは、血が流れている。……それだけではない、彼の体中は(おびただ)しいほどの傷で溢れかえっていた。 「ハルト様は、そこの研究所におられます。しかし今は……」  男の言葉を最後まで聞くことなく、セスナは研究所へと急いだ。歪んだ、重い鉄のドアを蹴り飛ばすと、埃の舞う室内へと足を踏み入れた。 「ハルト……いるのか?」  暗く、淀んだ空気が肺を刺激する。壁に飛び散った赤黒い血の跡が目に映る。そして、研究所の奥へと進むにつれ、その血の跡は鮮烈なものになっていった。 「ハル……」  足が止まった。──いや、止めざるを得なかった。何故なら、腹部から大量の血を流して倒れる少女の手を、強く握りしめながら、声もなく泣きじゃくる男の姿が映ったからだ。  男は、人の気配を背中に感じると、静かに口を開いた。 「すまない。少しだけ、時間をくれないか……」  男は喉から絞り出すように、その声を発した。掠れながら音を伝うその声は、涙を含んでいた。 「娘との、最後の別れなんだ」  セスナは、その場から崩れ落ちた。血を流し、床に寝そべる少女を見て、この世の終わりを見たよりも、ずっと恐ろしいものを見たかのように、絶望した。 「シーナ、どうして……」 「王子……。いや、セスナ」  ハルトと呼ばれた男は、娘の手をそっと床に置くと、覚束無い足取りで立ち上がった。そして、その瞳を、深い悲しみの炎で燃やし、決意を(たぎ)らせた。 「私は、これから禁忌に触れる。そして、世界の形を変える。それは決して、人として許されぬことだろう。セスナ、それでも君は手伝ってくれるか」  セスナは焦点のいかない瞳を、ハルトへと向けた。  彼がここに満身創痍の身体を引きずってでも走ってきた理由は、ただ一つ。この男、ハルト・グレシスに会うためだった。  人類は、空人という空に住処をおく種族によって、今まさに滅ぼされようとしていた。それを防ぐべく、彼は世界でもっとも偉大なる精霊学士と呼ばれる、ハルトの元へと来たのだった。少数の精鋭を護衛につけたが、今はもう誰もいない。全て空人によって、殺されたのだ。  彼は、いくつもの亡骸を踏み越えてここにきた。そして、今ハルトが空人に対して、人類の反撃の起点になろうとしていることが分かった。 「大罪人となり、この子の戦ってくれるか」  ハルトの言葉の液体が、心の海に雫となって、ぽつり──と落ちた。亡骸となった少女を見つめながら、セスナは一粒の涙を流すと、呟くように返した。 「なんだってするさ、世界を、彼女を守るためならば」
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