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ほんの少し開いていた窓から、小さな白い蝶が入って来た。
無垢な魂にわずかに影を落とすかのような、黒い斑点がその羽に浮かんでいる。
「……今年も来るか、マレビトが」
天井に届くほどの堅牢で巨大な木製の棚が、部屋の壁八方をそれぞれに囲んでいる。
細かな彫り物細工が施され、鮮やかな八色の布に覆われたそれには、古めかしくも美しい数え切れない程の本と、形も様々な色とりどりの宝石、水のように透き通った水晶が収められていた。
響いたのはその豪奢な部屋の主人である女性の声だった。
つぶやくように小さな声だったが、もしその場に聴く者がいたなら、きっと魂の奥底まで届いただろう。そういう種類の声だった。
だが彼女の城のもっとも高いこの塔部屋の最上階にいるのは、先ほど窓から入って来た白い蝶だけだった。
蝶は自分が入って来た場所が判らなくなったのか、外の景色を透す窓に向かって何度も羽を叩いていた。
蝶が羽ばたいているその影は、紫のビロードに金の縁取りと房飾りが付いた布が敷かれた、紫檀のテーブルに落ちている。
そのテーブルに向かう深い声の持ち主の彼女の手元には、手のひらほどの大きさのカードが十枚ほど並べられていた。
「さて」と彼女はまた独りごちた。
「閉じ込められた世界からやって来るのか、この世界に閉じ込められに来るのか……」
そう言って長く伸びた爪でカードを軽くつついた。
彼女の爪先に触れるカードには、道化師の衣装を着た人物が子犬を連れて崖の縁を行く姿が描かれている。
もしタロットカードに詳しい人間が見たら、きっとそれは『愚者』のカードだと言い当てただろう。
ただ、そのカードの人物は大きな猫の姿をしていた。
そしてそのカードに触れる彼女もまた、薄く柔らかなローブをまとった、人間の女性ほどの大きさの猫の姿をしていた。
長く大きな褐色の耳から下がる、顔の下半分を覆う薄いラベンダー色のヴェール。
その上に金と紫のオッドアイの、美しく光る大きな猫の瞳があった。
「どちらにせよ、未来を選ぶのは“旅人”次第……」
そう言って彼女は目を細めて蝶のいる窓を見上げた。
再び訪れた静寂の中、蝶が窓にぶつかる小さな羽音と、窓の外から流れてくる滝のような水音だけがかすかに聴こえていた。
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