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恐怖がすぐそこに来てた気がしたのに、あのコーチの笑顔と元気な伊都の声に慌てて、暗闇の中へと戻って行った。背中を丸めて、舌打ちでもしていたかもしれない。そのあと、一時間、俺は普通に見学することができた。
「ねぇ! お父さん! 俺、すごかった?」
「うん。すごかった。ちょっとびっくりした」
伊都が照れ笑いを浮かべながら、今日初めて自分の荷物を詰め込んだバッグをぎゅっと胸に抱えた。まだ髪の先から雫がぽたぽたと落っこちているっていうのに、更衣室を先に飛び出そうとするから慌てて捕まえて、ゴシゴシとタオルで頭を拭いた。その間も、今日、水に顔だけじゃなく頭から全部浸かれたこと、水中ジャンケンで二回勝ったことを話してくれる。頭まで水の中に潜ってしまうと、少しひんやりとしたけれど、気持ち良かったって、声が弾んでた。
俺もね、伊都、見学している間、恐怖が隣に座って、俺の手を、身体を、覆い隠してしまうことはなかったよ。
俺はそれよりも、伊都が頑張る姿を一時間応援することに忙しかったよ。
「へへへ」
伊都が笑って、俺も笑った。プールの後に笑えてた。
「はい。いいよ。あーでも! 伊都! 走らないようにっ!」
「はーい」
走りたいって、濡れた髪が伊都の一歩ずつに合わせて跳ねてる。
「あ、伊都、アイス食べる?」
「え? いいの? おやつ?」
「んー……」
商売上手。温水プールで一時間みっちりレッスンを受けた身体はヘトヘトで、外は灼熱、糖分も冷たさも同時に摂れるアイスはもってこいだ。そして、そんなアイスの自販機が更衣室を出てすぐの休憩所に、美味しそうな写真付きでこっちを誘惑してくる。
子どもは食べたくなるだろうし、親も頑張ったからと買ってあげたくなる。
だって、伊都は頑張っていた。初めての場所、知らない人ばかりの中、水慣れなんてしてない彼は一生懸命コーチの話を聞いて、挑戦してた。
コーチは三人、女性がふたり、男性がひとり。あの、レッスン前に挨拶をしに来てくれたコーチはメインの指導者なんだろうか。準備運動から、レッスンの指示も全て彼が出していたけれど。
「そうだなぁ。おやつとは……別、でもいいかな」
「! やったあああ!」
あまりに伊都が頑張ったご褒美を期待してるから、なんか、まぁいっかって。
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