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普通にスポーツクラブへやってきたら、受付カウンターの前を通るはず。けれど、俺に説明をするはずだった彼女は待てども待てども、俺のことを見かけなかったって。だから、どこから来たんだ? プールのある場所まで。という意味での質問だったのに。
「あっ」
それなのに俺は自分の住んでるところを答えた。その言葉のすれ違いに気がついて、一瞬で頬が真っ赤になった。
「す、すみません!」
なんでか、俺たちがここに到着した時、大勢がどっと階段を下りてきたところだったんだ。それで、その人ごみの中を潜り抜けてプールまで行ったから、彼女には見えなかったと思う。そして、俺は別の気がかりなことで頭がいっぱいで、プールっていう単語だけしか思い浮かばなかったから。水が怖くないだろうかと、そのことばかり考えていたから。
「いえ、でも、だから、あそこで見学してたんですね」
「え?」
俺は更衣室のある廊下からプールを見学していたけど、え?
「プールは二階なんですけど、三階が見学スペースになってるんです。上から見られるんですよ」
「……ぁ」
どうりで。
「誰もいないから、なんでだろうって」
「えぇ」
コーチが笑って人差し指を上へと向けた。保護者は上で皆見てたんだって。俺はそこに行かず、ひとり更衣室まで見ちゃってたなんて。
「すっすみませんっ」
うわ、何してんだ、俺ってば。
「いえ、どこで見てもいいんですよ。別に」
「次からは上へっ!」
「そのほうがいいかもですね」
そりゃ、そうだ。何を廊下でひとり突っ立ってんだって思われる。もう全然ダメじゃないか。説明は聞きそびれるし、コーチに迷惑かけるし。
「すみませんっ! レッスン後でお疲れのところを」
「いえ、全然大丈夫です。それに楽しかったです」
「え?」
向日葵みたいだと思った。絵本に出てくる太陽みたいな笑顔だと。温かかった。そして、身体の中に巣くっている「恐怖」がその眩しい陽の光を嫌がって、もっと背中を丸めて隅っこに逃げていく。
「一生懸命、伊都君を応援しているお父さんを見てるの楽しかったです。教え甲斐がありました」
「!」
「って、失礼ですね。すみません。あ、アイス、チョコデラックス美味しいよ?」
ふわりと微笑む彼にもっともっと背中を丸めて縮こまって、もう舌打ちすら聞こえなかった。
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