1 無心

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1 無心

 ぼおっとしていたら彼女が行ってしまう。それで誰かが来るのかと暫く待ったが、誰も来ない。だから、わたしがいなくなる。それ以外は普段と特に変わりがない。昼食後休憩時間の開放病棟には協調性のない野放図な声が溢れ、同時に騒がしいまでの沈黙が潜んでいる。  噴水や滑り台、鉄棒などの遊具がある広い中庭の正門入口側、一階に食堂が設えられた通称『土』と呼ばれる第四棟のちょうど反対側に建っているのが、工作室のある第一棟だ。こちらは『炎』と呼ばれている。その『炎』一階の施錠された工作室の前で心落ち着かずに行ったり来たりを繰り返しているのが山田さん。本名は知らないが医者と看護人/看護婦がそう呼んでいるから定着する。山田さんは細かい作業が得意な患者だ。今では木彫用板を与えると下絵もなしに行き成り彫刻刀で彫り始める。  が、山田さんが最初に行っていたのはベルト作りだ。なめし皮のベルト作りは幾つかある院内作業療法選択肢の一つで、木工や機械加工と違い、素人にも入りやすいので、殆どの入院患者がそれから始める。     
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