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『辞令:北京公使館附陸軍一等武官 及ビ 北京公使館陸軍部長 被仰付・南泉郁巳騎兵中佐』
その一行が目に飛び込んで来るや、実充は天を仰いだ。
「……悪夢だ」
実充はその朝、本国の陸軍省から届いたばかりの、駐在武官人事辞令公報に目を通していた。本国より伝達される最新の人事公報である。
既知のものも含め数十名の配置換えが正式発表されていたが、一等武官級の人事であるため当然一番はじめに名が挙がっている。
南泉郁巳。
何度読み返しても、その因縁浅からぬ男の名は読み間違える道理がない。
「大尉殿、悪い報せか何かでありますか」
陸軍中尉・黒部洌がさして興味もなさそうに、隣席から顔も上げず訊いてくる。悪夢だと云った実充の声が、独り言にしてはやや大きめであったのでここは応じておかねばなるまいという、半ば義務感の混じった声だ。
黒部は背を丸くして、本国の支那課へ送るための『支那内陸部兵要地誌』の取り纏めに当たっていた。実充より四期下の、同じ駐在武官である。
「悪いどころの騒ぎではない、最悪だ…」
あの南泉郁巳が、自分と同じ北京に赴任してくる――しかも公使館付一等武官といえば自分ら一般の駐在武官に比して雲上人ともいうべき上位――。軍人でありながら公使館員としての外交特権(不逮捕特権、住居への不可侵権、接受国における税免除等)も併せ持つ、重職である。
「そもそも奴が、とうとう己と同じ支那の空気を吸うに至るのか」と思うと、柚木実充大尉の心臓は、誤って軍服と一緒に洗濯してしまった徽章のごとく、くたくたに縒れてしまうのである。
南泉という男は、実充の人生に於いてしばしば鬼門というべき存在だった。
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