<1> 中華民国・北京駐在武官事務所(1928年)

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 曾祖父は1876年の秩禄処分政策(華族・士族に支給されていた家禄を撤廃する政策)以降、親戚一門を養うために事業に手を出して見事に失敗し、柚木家は名実ともに激しく没落した。  もっとも、同じような境遇の元士族はざらに居て、封建的奢りを捨てきれぬまま下手な商売で損をこいた曾祖父のような連中は「所詮、士族商売」と秘かに周囲から嘲笑われたという。  祖父の代からは失敗の可能性のかぎりなく低い商売――つまり軍人の道に進み、もともと武門の家柄であることもあってそれなりに栄達を得た。実充も軍人になるべく薫陶されて育った。彼は三男であるが、長兄の実盛(さねもり)、次兄の重実(しげさね)、ともに現役の陸軍将校である。  人の敷いた轍の上を歩んで軍人になったわけだが、その職業に関して言えば実充は、この水は中々自分に合っていると思っていた。少なくとも彼の学んだ陸軍幼年学校、士官学校は家柄など関係なく実力第一主義であったので。  実充は若くして中国という大国の秘める可能性に関心を持ち、陸士で学んだのちは進んで中国関連部局への配属を希んだ。本当のところは陸軍最高教育機関である陸軍大学校への進学を希望していたが、陸士卒業者数百名のうち原隊付(一般部隊勤務)2年を経て大学校へ選抜されるのは僅か三十名足らずで、彼も本国の師団勤務中に二度受験したが惜しくも合格はならなかった。  現在、あこがれの支那課に在籍できているのは陸士時代に猛勉強した中国語の語才を買われてのことで、陸軍大学校卒でない自分が参謀本部員の末席に身を置けたのは「たまたま運が良かったから」だとしか言いようがない。  それにしても彼と、幼年学校からの同釜の仲間である「南泉郁巳(なんぜんいくみ)中佐殿」の出世の命運を分けたのは、まさにこの陸軍大学校への入学の是否であった。
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