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帰る間際に一体どうしたのだろうか。不思議に思いながらガラス越しに広がる机の列、並べられた本の数々に埋もれる人の忙しそうな顔は一人や二人ではない。壁を見ればよく本屋で見かける作家の名前と共に新作の宣伝ポスターが貼られている。因みに俺は一度もない。 「あ、朝宮さん」  壁に飾られている大きなポスターの中の一枚。そこに書かれている名前は俺もよく知っている人のものだった。俺だけじゃなくて、日本の多くの人間が知っている名前。 「すごいな、相変わらず」  朝宮薫。女の人みたいな名前だけれど正真正銘の男の人だ。何を書かせても人を惹きつける文才と多彩な言葉遣い。読む人間が主人公になってしまうと言われるあの人はこの出版社で大先生と呼ばれる存在。  俺があの人を知っているのは、数年前にこの出版社の廊下でたまたますれ違ったとき、朝宮さんの隣にいた編集者が俺の名前を呼んで挨拶をした事が切欠だ。 ―あんたが彩賀(さいか)央(ひろ)なのか―  彩賀央。それは俺の作家のときの名前だ。由来というのは特にないけれど、本名で本を出すことに抵抗があった俺はなんとなく思いつく漢字を並べてこの名前を名乗った。  あの時酷く驚いた顔をして声を出していたけれど、どうしてか朝宮さんはそこから俺を見つけては声をかけるし、出版者の記念パーティーに一度だけ出た時も終始隣に立っていて俺は他の人からの視線が痛い思いをしていた。  売れない作家が面白いのだろうか。あの人と俺は正反対の生き物で、朝宮さんは学校でいうクラスの人気者。俺は教室の隅に居る人間という言葉が似合う。それ程までに俺と朝宮さんは違う人間なんだ。 「新作か、帰りに買おう」  朝宮薫という存在に引け目を感じる。それこそ、ただ小説の一節を読むだけでも力の差を見せつけられる。いやというほど分かっているけれど俺はあの人の作品の読者であり、尊敬している存在なのだ。
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