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 よく散歩に出る。それは、ふとした時に。あるいは通勤がてら。  歩くのは好きだ。閑散としたところでも、雑踏の中でも。  物思いに耽るでもいいし、なにも考えないのにも適している。こんな場所は、今やどこを探してもないような気がする。さしずめ、トイレの中以外は。  歩く場所によって、空気に混じるにおいは様々だ。  田園風景や、林の木々の脇を通り抜けるときの柔らかい土や生い茂る葉のにおい。生き物のにおい。街中に出れば、飲食店から漂う食欲をそそるにおいもあれば、それだけで胃がもたれそうなほどの甘ったるいにおいもある。  何より歩いているあいだというのは、こもる場所がないのがいい。場所が変われば目に映るすべてが変わりゆく。人も、建物も、においも。滞るものがないというのは、それだけで清々しいものだ。  今日こうして散歩に出たのは、出勤するためでも、ましてや暇を持て余しているわけでもなかった。昨日、ふと開いたアルバムがすべての起因であることは明らかで、けれど、それがどうしてこうも自分を駆り立てたのかはまるで判然としなかった。故に、歩き出したのだった。  先月に、同窓会も兼ねた会が催された。  小学校時代の恩師である佐々山先生が定年を迎えたことを知り、遅っぱぐれながらお盆という地元から離れたかつての同窓も帰省をしやすい時期を狙っての開催となったその会で、私は予期せず彼の言葉に聞き耳を立てることになった。 「もうどうだろう、25年ほど前になるのかな、君たちの担任をしていたのは」  そう切り出した佐々山先生は、当時の印象に比べて、ひと回り小さくなったように見えた。坊主とも角刈りともつかないその髪型も色の黒さも、当然ながら身長も、あの頃となんら変わりはないのだけれど。強いて言えば、いくらか老齢になりつつあるためか、痩せたような気がするくらいだ。  大人になるというのは、こういうことなのかもしれない。  見上げるような背丈の違いも、今や追い抜いた友人だっている。あの頃の先生の歳に、私たちはやっと追いついたのだ。いつの間にか、母の方が小さくなってしまったのに気付いたときと、実家を離れて就職し、久しぶりに実家に帰省して会った母の印象がちがっていたことに気付いたときのあの感覚に似ている。背丈だけではない、たしかな歩みの中で私たちは大人を実感するのだ。
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