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「帰ったと言ってるんだ!」
返事は、無い。
頭の中から妻の顔と台詞が完全に消えてしまった。
「どこだ? 頼む、悪ふざけはやめてくれ」
電灯もついていない部屋を次々と見て回ったが、妻はどこの部屋にも居なかった。
玄関に戻り肩を落としていると、突然誰もいない我が家が、ひどく虚ろで禍々しい空間に思えた。何も無い部屋に恐ろしい空気だけが充満していていく。
どうする事も出来ず呆然と立ち尽くす。何だ、一体全体何だと言うんだ。どうして誰も何も説明してくれないんだ。おかしいじゃないか、こんな事有り得ないだろう。先ほどまで私はいつも通りの日常に居たんだ。何故突然こんな事が起きる。
対処しきれない状況に立ち尽くしていると
突然、アノ音が聞こえた。虫の声でも鳥の声でも風の音でもない、アノ音だ。暗闇からゆっくりゆっくり近づいてくる、あの気配。
私は恐る恐る駅の方を振り返った。
視界一杯に見えたのは闇だった。
大きな大きな、無限に広がる暗闇だった。
向こうの方から街灯が一つ、また一つと消えていく。その様はまるで巨大な壁が迫ってきているようだ。街灯だけでは無い、家が、店が、全てが闇に飲み込まれていく。闇が十メートル先にまで迫って来た時私は理解した。
ああ、あの闇は死だ、死そのものだ。何もかもを突然飲み込んでしまう理不尽な暴力、得体が知れない巨大な何か。
私はあれに追われていたのだ。いや、私だけでは無い。生きとし生けるもの、その全てがあれに終われ、ただ逃げるだけの一生を過ごすのだ。そしてあれに捕まった時、自分が積み上げてきた一生全てが、突然奪い去られてしまう。
私達はいつもあの存在を忘れてしまっている。死はいつだって私のすぐ後ろに居たじゃないか。今も闇は全てを、私をも飲み込もうと迫り続けている。
「くそっ! くそっ!」
行き場の無い怒りを、迫り来る闇向かって放った。闇には全てが無となり消えていく。
そうして叫ぶ私すら飲み込んだ時、私の意識も闇へと消えた。
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