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誘い神を何とかしないことには、下手に人員も増やせない。そうぼやいて、社長はタッチペンを口に運ぶ。
次の瞬間、ミラーに映った光景に目を疑った。
無意識なのかそうでないのか、社長はまるで幼児が自分の爪を噛むようにペンの持ち手をがりがりと齧る。
「ちょっ、社長。それは……」
とっさに声をかけると、社長はきょとんとした顔で、バックミラーに写る俺を見上げる。
「はい?」
その焦点が微妙に合っていない目には、どこかで見覚えがあった。
三ヵ月前、杉内邸の井戸で南天との交渉が決裂した直後。あの時も彼女は今と同じ茫洋とした、どこか現実を拒絶するような目をしていた。
市之瀬邸に到着すると同時に、ぽつぽつとにわか雨が降り始める。
昨日は門前で俺たちを出迎えてくれた鎮守神の姿が、今日は見当たらないかった。
俺と社長は昨日の続きを、老秘書と竹林(弟)さんのペアは午前中に二階の整理と査定を終わらせ、午後からは全員で一階の作業にあたることになった。
仏間で手を合わせていたその時、廊下の窓の外からがさがさと物音が聞こえてくる。
「……卯座姑様?」
障子窓を開くと、そこには枇杷の木の下で途方に暮れる市之瀬邸の守り神の姿があった。
途方に暮れていた目玉が、俺たちを見た瞬間パッと輝く。
『ちょうどええ所に来てくれただ。こいつが、巣から落っこちちまったみたいで……』
長い人差し指が、自身の頭上を示す。
が、この守り神は普通の人間の倍近い背丈があるため、俺たちの目線からは頭頂部が見えない。
仕方がないので梯子(はしご)にのぼって見ると、まるで鳥の巣のような蓬髪の上で、メジロの雛がじたばたと暴れていた。
どうやら、髪が脚にからまってしまったらしい。
(人のにおいが移ると、親鳥が育児放棄するって聞くけど……)
『髪さ千切ってええだよ』
「いえ、大丈夫です」
軍手をはめ、小枝のような脚から髪をほどく。
鎮守神のほぼ真上にあった巣に雛を戻すと、ちょうど親鳥がやってきて、俺たちを気にしつつも子供たちに餌を与え始めた。
『ふう、良かっただ』
「まさか私たちが来るまで、ずっと待っていらっしゃったのですか?」
社長に尋ねられ、鎮守神は照れくさそうに頭をかく。
『まだ生まれたばっかりのチビだ。親兄弟の近くさ離れると、不安だが』
一体、いつから待っていたのだろう。
社長は更に何かを言おうとして、思い留まったように唇を噛んだ。
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