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「すみません」
社長は素直に詫びると把手から手を離し、クローゼットから数歩下がる。
そして閉じたままのクローゼットに向かって、穏やかな声で問いかけた。
「詩緒さん、先日お会いした御堂です。覚えていらっしゃいますか?」
「…………覚えてる。哉汰の上司の、社長さんでしょ」
先輩の声だけがぽつりと返ってくる。その響きにはすでに、先ほどの剣呑さは無い。
だが、測定器は変わらず異常値を示したままだった。
「少し、私とお話ししませんか?」
「話すって、なにを」
「詩緒さんのことを。もしお嫌でしたら、世間話でも」
「……この前みたいに、変なお札(ふだ)使わない?」
探るように尋ねられ、社長は「誰にも危害を加えないと、約束してくれるなら」と答える。
「この部屋には今、私と彼岸坂くんしかいません。ご家族の方には、別の場所で待機していただいています」
社長の誘いに応じるように、先輩はクロゼットの折り戸をすり抜けて姿を現した。その全身は二日前と同じように仄(ほの)かな青白い光を放ち、半透明に透けている。
薄暗い自室を見渡し、先輩は怪訝そうに目をしかめた。
「なんでこの部屋、雨戸閉め切ってんの?」
先輩と社長に了解をとって雨戸を開けると、生暖かい風がカーテンを揺らし、埃(ほこり)が宙に舞い上がる。
長らく掃除がされていなかったようで、机や棚にはうっすらと埃が積もっていた。
「それで、二人とも本当は何しに来たの? うちの親に頼まれて、私を追い払いに来たとか?」
勉強机の上に腰かけ、先輩が率直に尋ねる。
「そういうわけではないのですが……」
「回りくどい遠慮はいらないから、はっきり本当のことを答えて」
手加減のない追及に、社長はわずかに口籠ってから本題を切り出した。
「……今日は、生前整理のお見積もりに来ました」
「セイゼンセイリ?」
社長は少し居た堪れなさそうに、しかし丁寧に生前整理についての説明をする。先輩は特に顔色を変えず、じっと耳を傾けていた。
「……要するに、社長さんと哉汰は私の部屋を片付けに来たってこと?」
「今日は一応、下見だけですけどね」
ふうん、と相槌交じりに足をプラプラと揺らす。
二日前とは打って変わって、先輩はごく落ち着いているように見えた。
「そっか。私、もう助からないんだ」
「先輩……」
「まあ、そうだよね。三階から飛び降りて、五年も植物状態なんだから」
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