3729人が本棚に入れています
本棚に追加
「番野様。先ほどお兄様から、あなた様が当家に来ていらっしゃらないかとご連絡がありました」
「す……すみませ……」
申し訳なさそうに詫びる声は震え、かちかちと歯がかち合う小さな音が混じる。
「よろしければ、お使いください」
よほど寒かったようで、ニコルさんに差し出されたひざ掛けを、人騒がせな来客は頭からかぶった。
何度も居留守を使ってきた相手とはいえ、今回はさすがに放置できなかったらしい。
彼女の体調が回復するまで医務室で休んでもらうと、社長の判断が下りた。
何か手伝えることはないかとニコルさんに申し出るも、「人手は足りているから」と、逆に気を遣われてしまう。
しかしニコルさんの車を見送り、再び出かけようとしたその時、歩道の隅に皮の手袋が落ちていることに気付いた。
サイズやデザインからして女性用だ。彼女が落としたのかもしれない。
医務室へ届けに行くと、ちょうどお手伝いさんの藤田さんが配膳用のワゴンを運んで来る。
「彼岸坂くん! ちょうどよかった、一番上の引き出しから電気毛布とって!」
どうやら来客は軽度の低体温症を起こしていたようで、コートも脱がず毛布にくるまり、ソファの上で小刻みに震えていた。
俺が電気毛布を準備している間、藤田さんはワゴンの上で飲み物を用意する。甘いにおいがふわりと部屋に漂った。
「番野様、牛乳と蜂蜜は大丈夫ですか?」
来客が頷くと、小さな壺に入った蜂蜜がホットミルクにたっぷり溶かされる。
ちょうどその時、社長が医務室に入ってきた。
「小夜さん、どうして付き人もつけず、しかも朝食もとらずに一人で外出したんですか! 番野家は大騒ぎだそうですよ」
部屋に入るなり、ソファの上で丸まった来客をじりりと一瞥する。
「す、すみません。とても空気が澄んでいたので、少し外を歩きたくて」
「まさかご自宅からずっと歩いていらっしゃったんですか!?」
呆れ顔で尋ねられ、来客がビクッと体を竦ませる。
「はい」
「一体、何時間歩いたんですか」
「ええと、おそらく二時間と二十分ほど」
貧血や低体温症を起こすわけだ。
この季節、しかも早朝に朝食もとらず二時間以上も歩くなど、無知と無謀もいいところだった。
几帳面にも腕時計を確認して答える来客に、社長はしかめっ面を隠そうともせず、盛大なため息をつく。
「今、百舌さんがこちらに向かっていらっしゃるそうです」
「お兄様が……?」
最初のコメントを投稿しよう!