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「お兄さんがいらっしゃるまで、少しでも体を暖めておいてください」
彼女のお兄さんということは、社長の元婚約者だ。
気まずそうな上司には申し訳ないが、どんな人なのか少し気になった。
「森田さんは何か軽く食べるものを。彼岸坂くんはヒーターの準備をお願いします」
カイロの封を開けながら、テキパキと指示を出す。
態度は素っ気ないが、社長なりに来客の体調を案じているようだった。
客間からファンヒーターを運び、ついでに森田さんを手伝って食器を用意する。
「社長もニコさんも大変ねえ。番野様がいらっしゃるまでに間に合うといいけど」
コンソメスープを温めながら、森田さんがぼやく。
「何かあったんですか?」
「よりによって、さっきクワトロが脱走したの。地面に穴を掘って、檻を抜け出したみたいで……」
社長とニコルさんの雰囲気が少しあわただしかった裏には、そんな事情があったらしい。
千藤さんと二人がかりで探しているが、遁走館の敷地面積はとにかく広い。捕獲は難航している様子った。
森田さんの手伝いを終え、ニコルさんのスマホに連絡する。
「自分もクワトロを探してきます。お客様にとびかかったりしたら大変ですから」
「しかし君は今日、外出の用があるのでは?」
「大した用じゃないんです。人と約束しているわけじゃないから、大丈夫ですよ」
多忙な老秘書は少し沈黙してから、「申し訳ない」と俺の申し出を受け入れた。
ニコルさんの次は、事務室の内線に電話をかける。三回ほどコールが鳴った後、ガチャガチャと受話器をずらす音がした。
「南天、頼みたいことがある。実はクワトロが――――」
『知っておる、はようあの黒い獣を捕まえぬかッ!』
最後まで言う前に、悲痛な金切り声が響き渡った。
野生の勘というべきか、南天はすでに天敵の脱走に気付いていたようだ。
「今探してるよ。二階の窓から、クワトロがどこにいるか見えないか?」
『あやつは果樹園から蔵に向かって……うう、庭師殿は何をしておるのだ。そちらは正反対の方向ではないか』
電話口から響く声が、どんどん悲愴感と焦りをおびてゆく。
以前、おやつと間違えてクワトロに喰われそうになったことが、よほどトラウマになっているようだった。
『哉汰、おぬし今どこにおる』
「母屋の前だけど」
『東の隠門の近くで待ち構えるのだ!! ゆめゆめ取り逃がすでないぞ!』
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