第四章 神隠しの宿  ~前編~

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「彼岸坂くん。ちゃんと食事と睡眠、とってますか?」 年の暮れも少しずつ迫ってきた、十一月の終わりごろ。 ガレージの清掃が終わると、社長はそう俺を呼び止めた。 押し戸を開けたニコルさんも、立ち止まってちらりとこちらを振り返る。 「はい、一応……」 「そうは思えないやつれかたですよ」 声こそ穏やかだがピシャリと言い切られ、返答に窮する。 「……すみません。仕事に支障をきたさないよう、自己管理します」 追及から逃れようと、ろくに考えず事務的な回答を口にしてしまう。 言ってすぐ、後悔した。心配そうな社長の顔が、かすかに歪んだからだ。 「そんなことを言いたいわけじゃありません。仕事ではなく君が心配なんです」 彼女の指摘は図星だった。 数日前に彼女の「元婚約者」を見てから、俺はろくに寝付けず、食べ物がまともに喉を通らなくなった。 「何か、深刻な悩みがあるのではないですか? 一人で抱え込まず、教えてください」 そう言って、社長はごく自然に俺の手を握った。彼女の白い手は、存外に温かい。 驚くと同時に、自分の手が冷え切っていることに気付く。 しかし、そう言われても簡単に言えるわけがない。 社長の元婚約者が十二年前、俺の妹を殺したかもしれないなど―――― 翌日、俺は再び千屋荘を訪れるために遁走館を出た。 駅の駐輪場に自転車を停め、スマホで時間を見る。ついでにアプリで長野県の天気も確認した。 曇りのち雨。最低気温は八度。 千屋荘があるのは長野県の北部、山あいの小さな町だ。はやければ来月の頭から、雪が降りはじめるだろう。 アプリを閉じると、俺は無意識のうちにブックマークの中のとあるSNSのページを開いていた。 番野百舌のFacebookや、彼が経営する緑青リゾートグループの公式アカウント。 ここ数日、それらをチェックすることが日課と化しつつある。 プライベートなことは全く投稿されていない。緑青リゾートが経営するホテルのフェアやキャンペーン等、イベントの告知がされているくらいだ。 毎日眺めているうちに、関係者の名前や役職まで大方覚えてしまった。 我ながら、まるでネットストーカーだ。 これではどちらが犯罪者だか分からない。
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