3732人が本棚に入れています
本棚に追加
/358ページ
入社から半年たって、うすうす気付いたことがある。この古株の老秘書が営業スマイルで笑う時は、おそらくかなり怒っている時だ。
故意ではないといえ、社長やニコルさんに無断で遁走館を出禁となった御堂家の人間と会ってしまった後ろめたさも手伝って、俺はニコルさんの誘いを断れなかった。
言われるがまま、セダンの助手席に乗る。
「……社長に言われて、様子を見に来たんですか?」
昨日、社長に心配されたことを思いだして尋ねると、「いいえ」と否定された。
「私の独断です」
「どうして、せっかくの休日にわざわざ」
「いけませんか。上司が部下を心配しては」
「別に、駄目というわけじゃ……」
それきり会話も弾まず、車内に気まずい沈黙が漂う。
ニコルさんが車を走らせること一時間半、窓からどこか見覚えのある景色が見えはじめる。
繁華街から少し離れたベッドタウンの、更に奥の小さな町。少し前、何度も通った道だ。
しかし今や、その景観もすっかり様変わりしていた。
「……この辺りって、もしかして」
「はい。五ヵ月前に依頼を請け負った、市之瀬邸の近くです」
建物は軒並み取り壊され、至る所にバリケードやカラーコーン、重機が置かれていた。
土曜日ということもあってか、周囲にひと気はない。
車を路肩に寄せ、立ち入り禁止の看板の前で停車する。後部座席に置かれていた紙袋を片手に、ニコルさんは車を降りた。
そして、当然のように黒と黄色の侵入禁止バーをまたぎ、当然のように工事現場の奥へと進んでゆく。
「ニコルさん、そっちは立ち入り禁止じゃ」
「許可は得ています。ついてきてください」
思わず止めた俺を、ニコルさんは振り向かずに促した。やむをえず後を追う。
荒れた凸凹の道を少し進むと、前方にプレハブ小屋が見えてくる。トタンの屋根の上には、かつての市之瀬邸の守り神が座っていた。
「卯座姑様……」
俺たちに気付いて、屋根からするりと飛び降りる。
「ご無沙汰しております、卯座姑様」
ニコルさんは立ち止まり、卯座姑様に向かって深々と頭を下げた。
ボサボサの白髪にぞろりと裾の長い着物、青い肌に枯れ木のような巨躯。そして、大きな一つ目。
『にこ。おや、今日は哉汰も来てくれただか』
「お、お久しぶりです」
皿のような目をなごませ、嬉しそうに俺たちを見下ろす。
最後に会った時と何ら変わらない元・守り神の姿に、少しホッとした。
最初のコメントを投稿しよう!