第四章 神隠しの宿  ~前編~

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「彼岸坂くん。前に南天で試した時のように、私を卯座姑様と会話できるようにしてもらえませんか」 ニコルさんが俺を振り返る。一体何に付き合わされるかと身構えていたが、少し拍子抜けした。 「はあ。わかりました、じゃあ……」 『?』 断る理由もないため、ニコルさんの広い額にそっと右手を添える。卯座姑様はそんな俺たちを、不思議そうに眺めていた。 俺が手を離すと、灰色の瞳がゆっくりと開く。 『にこ?』 「聞こえました。これで私も少しの間、卯座姑様とお話が出来ます」 そう言って顔を上げたニコルさんに、卯座姑様は皿のような目を更に丸くした。 仮設休憩所のベンチを机がわりに、ニコルさんは紙袋の中身を広げてゆく。 化粧箱に六つ詰まった苺大福は、予約を受けた分しか作らないという限定品で、社長のお気に入りの店のものだ。水筒のコップに温かい緑茶を注ぎ、卯座姑様の前に置く。 「君はこちらを。寝不足の時はカフェインを控えましょう」 350mlサイズの温かいほうじ茶のペットボトルを手渡され、即席の茶会が始まる。 卯座姑様は急に言葉を交わせるようになった老秘書に驚きつつも、嬉しそうに話しかけていた。 『東雲は達者でやっとるだか?』 「はい。生憎、御堂は本日所用がありまして。卯座姑様によろしくと、言伝と差し入れをあずかって参りました」 『元気ならええだよ。それにしても甘え饅頭だなァ。中に入っとるのは水菓子か?』 「ええ、苺という果物です」 『いちご……?』 どうやら苺は初めてらしく、枯れ枝のような長い指で器用につまんで、物珍しそうにまじまじと眺める。 「卯座姑様。やはり、お気持ちは変わりませんか?」 ニコルさんがおもむろに尋ねる。箱に伸ばした卯座姑様の手が、ピタッと止まった。 『……んだ。でもオラはもう神でねえから』 「しかし御堂は、卯座姑様ほどふさわしい方は他にないと申しておりました」 『買いかぶりだが』 大福をつまみあげ、困ったように笑う。 「卯座姑様には御堂家が所有する山の守護者になっていただきたく、以前から社長とともに何度か頼み込んでいるのですが……」 話についていけず困惑する俺に、ニコルさんが事情を説明する。 いわれてみれば五ヵ月前、社長もそんなことを卯座姑様に言っていた覚えがある。 「なかなか色よいお返事をいただけないのです」
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