第四章 神隠しの宿  ~前編~

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信号が赤に変わり、車が停止する。 「君の境遇を考えれば、人を信頼できないのは無理もない。それを責めるつもりはないのです」 「……」 「ですが他人を信じ、頼ることが出来ないからこそ、君は人間より人ならざる者たちに親近感を抱くのだと最近分かってきました。友人の日下部くんより南天と気安く語らい、叔父様や叔母様よりも卯座姑様になついて心を許す」 押し黙る俺を、灰色の眼がバックミラーごしにちらりと見下ろす。 「ですがそんな自分を、心のどこかで疎(うと)んでいるのではありませんか? 人の側にも人外の側にも、身の置き所を見つけられず苦しんでいる。そう見受けられます」 何も言い返せず、すっかりぬるくなったペットボトルのお茶を一口飲む。 人を信頼していないわけじゃない。 しかし周囲といくら信頼関係を築いても、不安は影のようにつきまとう。 この平穏と幸福はいつまで「もつ」のだろうと考えて、誰に対しても一線を引いてしまう。 現に番野百舌の一件から、俺は転職先を……新しい逃げ場所を探していた。 「無理に信じろとは言えませんが、そうですね……せめて辞表を提出する前に、一度くらいは頼ってください」 ほうじ茶を吹きそうになった。 一体、いつ気付かれたのだろう。転職のことなど、誰にも話してないはずなのに。 「図星でしたか。明確な転職のビジョンがあるならともかく、今の状態の彼岸坂君から退職届を受けとることはできません」 どうやら、かまをかけられたらしい。 むせて咳(せ)き込む俺から、食えない老秘書はペットボトルを取り上げる。 「あ、あのニコルさ……」 「たとえ社長が受理しても、私は認めません。それだけは覚えておくように」 淡々と断言すると、ニコルさんはまるでそっぽを向くように前を見た。 そんな週末も明け、11月も終盤にさしかかったとある月曜日。 今までとは少し毛色の違う依頼が、日歿堂に舞い込んだ。 「宿じまい……?」 「昨晩、京本さんという女性の方からお電話をいただいたんです。亡くなった弟さんが経営していた宿を、当社に整理してほしいとのことですが」 社長はそこで説明を区切ると、不可解そうに首をかしげた。 「このご依頼、弟さんたってのご希望らしいんですよ」 「亡くなった方の、ですか?」 「ええ。自分に何かあった時は、うちに宿の片付けを頼むように、遺言状だけでなく日頃から仰っていたのだそうです」
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