第四章 神隠しの宿  ~前編~

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撮影用のビデオカメラを、暗視モードに切り替える。 立てつけの悪い片引き戸を開けると、目の前に現れたのはひどく殺風景な部屋だった。 「ここは……?」 社長が少し戸惑ったように、懐中電灯をかざす。 先ほどの部屋よりわずかに手狭で、奥の壁に古い和箪笥(わだんす)がひとつだけ置かれているのを除けば、全くといっていいほど物は無い。 黴(かび)と埃(ほこり)と、濡れたアスファルトのような少し金臭い土のにおいが、冷気と混じって漂ってくる。 こちらは物置きではないのだろうか。 何も無い部屋でとってつけたようにぽつりと置かれた和箪笥に、言いようのない違和感を覚え、首をかしげた。 トン、トン、と社長の足音がかすかに響く。 この部屋にも室内照明の類は見当たらない。 地下はこんなに暗いのに、不便ではないのか。そう思ってビデオカメラのモニターをちらりと見た、その時。 『契約、履行』 「えっ?」 突然、耳元で聞き覚えのない声が響き、とっさに周囲を見回す。 『承引』 再び、地を這うような低くくぐもった声がした。 「彼岸坂くん? 今、何か言いました?」 不思議そうに問われて社長に向き直ると同時に、こちらを振り向いた彼女の背後で、奇妙な形の影が揺らめく。 (……影?) 一泊おいて、息が止まりそうになる。 それは「影」ではなかった。 人のそれと同じ形をしていたが、影のように真っ黒な色をした、無数の「腕」。 それらは社長の足元から生えていた。 俺の視線に気付いた社長が、パッと背後を振り返る。すると一斉に、何本もの腕が彼女につかみかかった。 「なっ!?」 無我夢中で社長に駆け寄る。 ビデオカメラが手をすり抜け、ゴトンと音を立て床に転がり落ちる。が、拾う余裕はなかった。 「社長!!」 社長の足に、体に、腕に、無数の腕が絡みつく。華奢な体が半分、まるで沼に沈むように、真っ黒く染まった地面にずるりと沈んだ。 驚愕しつつも腕を振り切り、社長は俺に向かって右腕を伸ばす。 「彼岸坂く――――」 しかし俺が右手を掴んだ瞬間、玉虫色の瞳がわずかに揺れた。端整な顔が苦渋に歪む。 一瞬ののち、社長は俺の手を振り払った。 「――――駄目!」 「社長!? 何を」 「逃げて! 今すぐにっ……」 悲痛な叫び声が響き渡った。 次の瞬間、視界が黒く塗りつぶされる。足下をすくわれるような感覚とともに、嫌な浮遊感が全身を駆け巡った。
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