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撮影用のビデオカメラを、暗視モードに切り替える。
立てつけの悪い片引き戸を開けると、目の前に現れたのはひどく殺風景な部屋だった。
「ここは……?」
社長が少し戸惑ったように、懐中電灯をかざす。
先ほどの部屋よりわずかに手狭で、奥の壁に古い和箪笥(わだんす)がひとつだけ置かれているのを除けば、全くといっていいほど物は無い。
黴(かび)と埃(ほこり)と、濡れたアスファルトのような少し金臭い土のにおいが、冷気と混じって漂ってくる。
こちらは物置きではないのだろうか。
何も無い部屋でとってつけたようにぽつりと置かれた和箪笥に、言いようのない違和感を覚え、首をかしげた。
トン、トン、と社長の足音がかすかに響く。
この部屋にも室内照明の類は見当たらない。
地下はこんなに暗いのに、不便ではないのか。そう思ってビデオカメラのモニターをちらりと見た、その時。
『契約、履行』
「えっ?」
突然、耳元で聞き覚えのない声が響き、とっさに周囲を見回す。
『承引』
再び、地を這うような低くくぐもった声がした。
「彼岸坂くん? 今、何か言いました?」
不思議そうに問われて社長に向き直ると同時に、こちらを振り向いた彼女の背後で、奇妙な形の影が揺らめく。
(……影?)
一泊おいて、息が止まりそうになる。
それは「影」ではなかった。
人のそれと同じ形をしていたが、影のように真っ黒な色をした、無数の「腕」。
それらは社長の足元から生えていた。
俺の視線に気付いた社長が、パッと背後を振り返る。すると一斉に、何本もの腕が彼女につかみかかった。
「なっ!?」
無我夢中で社長に駆け寄る。
ビデオカメラが手をすり抜け、ゴトンと音を立て床に転がり落ちる。が、拾う余裕はなかった。
「社長!!」
社長の足に、体に、腕に、無数の腕が絡みつく。華奢な体が半分、まるで沼に沈むように、真っ黒く染まった地面にずるりと沈んだ。
驚愕しつつも腕を振り切り、社長は俺に向かって右腕を伸ばす。
「彼岸坂く――――」
しかし俺が右手を掴んだ瞬間、玉虫色の瞳がわずかに揺れた。端整な顔が苦渋に歪む。
一瞬ののち、社長は俺の手を振り払った。
「――――駄目!」
「社長!? 何を」
「逃げて! 今すぐにっ……」
悲痛な叫び声が響き渡った。
次の瞬間、視界が黒く塗りつぶされる。足下をすくわれるような感覚とともに、嫌な浮遊感が全身を駆け巡った。
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