第四章 神隠しの宿  ~中編~

2/20
3732人が本棚に入れています
本棚に追加
/358ページ
「……う」 目を開くと、頭の奥に鈍い痛みが走った。 一気に目が覚め、体をはね起こす。床に転がっていた懐中電灯をたぐり寄せ、とっさに周囲を見回すが、社長の姿はない。 床から伸びてきた、無数の黒い腕も見当たらない。 それらのかわりに目の前にいたのは、全身が真っ黒な人影だった。 黒一色で体を塗りつぶしたような、人の形をした何か。 この影を、ずいぶん久しぶりに見た気がする。 前に会ったのは9カ月前、ニコルさんと初めて会った時……俺が川に飛び込もうとしていた時だ。 「お前は……」 とっさに後退って距離をとった俺に、影がそれ以上近づいてくることはなかった。ただ無言で右腕を上げ、半開きの片引き戸を指差す。 「……?」 まるで墨で塗りつぶされたように真っ黒な顔からは、表情を窺えない。 懐中電灯を向けられても反応らしい反応は見せず、じっとこちらを向き、扉を指差したまま動かない。 警戒し、様子を窺っていたのも束の間、影は音もなく姿を消した。 「なんだったんだ……?」 首をかしげつつも、改めて懐中電灯で照らしながら周囲を見回す。 黴や埃、そしてわずかに湿った土のにおいが漂う、真っ暗な部屋。部屋の奥には小さな和箪笥がひとつ。 先ほどと同じ地下室のようだが、どうにも違和感がある。 自分が今立っているのは先ほどと同じ場所のはずなのに、何かが決定的に違うような気がしてならなかった。 だが、悠長に考えているヒマはない。 すぐに社長を探さなくては。 部屋を出ようとしたその時、外からトン、トンと階段を降りてくる足音が響いた。 「!」 わずかに開いた片引き戸の隙間から、白い灯りがのぞく。 身構えた俺の目の前で、ガタガタと立てつけの悪い音を立てて戸が開く。 そうして姿を現したのは、見覚えのある初老の男性だった。 『こんなことろにいたのかい』 千屋吟(せんやぎん)――――3ヵ月前に亡くなった千屋壮の主人、その人だ。 依頼人夫妻に見せてもらった写真より少し痩せてはいたが、おそらく間違いない。 総白髪の短髪に、皺だらけの面長な顔。 狐目というのだろうか。吊り上がった切れ長の目が妙に印象的だ。痩せた中背の体に、紺の浴衣を気崩している。 目を見開く俺をちらりと一瞥し、懐から小さな白い箱を取り出す。 『……こっちのツラは割れてるみたいだねえ。兄さん、連れの別嬪(べっぴん)さんを探してるんだろ?』 しゃがれた声でそう言い、千屋壮の主人は煙草をくわえて火を(とも)した。
/358ページ

最初のコメントを投稿しよう!