3732人が本棚に入れています
本棚に追加
/358ページ
「……う」
目を開くと、頭の奥に鈍い痛みが走った。
一気に目が覚め、体をはね起こす。床に転がっていた懐中電灯をたぐり寄せ、とっさに周囲を見回すが、社長の姿はない。
床から伸びてきた、無数の黒い腕も見当たらない。
それらのかわりに目の前にいたのは、全身が真っ黒な人影だった。
黒一色で体を塗りつぶしたような、人の形をした何か。
この影を、ずいぶん久しぶりに見た気がする。
前に会ったのは9カ月前、ニコルさんと初めて会った時……俺が川に飛び込もうとしていた時だ。
「お前は……」
とっさに後退って距離をとった俺に、影がそれ以上近づいてくることはなかった。ただ無言で右腕を上げ、半開きの片引き戸を指差す。
「……?」
まるで墨で塗りつぶされたように真っ黒な顔からは、表情を窺えない。
懐中電灯を向けられても反応らしい反応は見せず、じっとこちらを向き、扉を指差したまま動かない。
警戒し、様子を窺っていたのも束の間、影は音もなく姿を消した。
「なんだったんだ……?」
首をかしげつつも、改めて懐中電灯で照らしながら周囲を見回す。
黴や埃、そしてわずかに湿った土のにおいが漂う、真っ暗な部屋。部屋の奥には小さな和箪笥がひとつ。
先ほどと同じ地下室のようだが、どうにも違和感がある。
自分が今立っているのは先ほどと同じ場所のはずなのに、何かが決定的に違うような気がしてならなかった。
だが、悠長に考えているヒマはない。
すぐに社長を探さなくては。
部屋を出ようとしたその時、外からトン、トンと階段を降りてくる足音が響いた。
「!」
わずかに開いた片引き戸の隙間から、白い灯りがのぞく。
身構えた俺の目の前で、ガタガタと立てつけの悪い音を立てて戸が開く。
そうして姿を現したのは、見覚えのある初老の男性だった。
『こんなことろにいたのかい』
千屋吟――――3ヵ月前に亡くなった千屋壮の主人、その人だ。
依頼人夫妻に見せてもらった写真より少し痩せてはいたが、おそらく間違いない。
総白髪の短髪に、皺だらけの面長な顔。
狐目というのだろうか。吊り上がった切れ長の目が妙に印象的だ。痩せた中背の体に、紺の浴衣を気崩している。
目を見開く俺をちらりと一瞥し、懐から小さな白い箱を取り出す。
『……こっちのツラは割れてるみたいだねえ。兄さん、連れの別嬪さんを探してるんだろ?』
しゃがれた声でそう言い、千屋壮の主人は煙草をくわえて火を点した。
最初のコメントを投稿しよう!