第四章 神隠しの宿  ~中編~

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――――お前さんたち二人は売られたってことさ。 笑いを噛み殺した千屋の声が、脳裏によみがえる。 ざっと周囲を見渡すが、社長の姿はどこにも見当たらない。 なるべく音を立てないよう、そっと障子をずらして外を窺った。まるで夜のように暗い。この建物の灯りでかろうじて、周囲を森に囲まれていることが判別できる。 ぎゃあぎゃあと、外からけたたましく烏の鳴く声が響き渡った。 『聞いたか? 今日は人間の女が競りに出されるらしいぞえ』 すぐ後ろで獣が唸るような、低く野太い声がした。 振り返ると、先ほど見かけた僧衣をまとう巨人が、猫又や他の化け物たちと酒を酌み交わしながら会話に興じている。 『なんでも世にも珍しい、玉虫色の目玉を持つ女だとか。光の具合で色が変わる、翠玉(すいぎょく※エメラルドの和名)の如き瞳をしておると、吟(ぎん)は言うておったが……』 『そいつァ珍しい。競りが荒れそうだなァ』 前足の爪を舐めながら、猫又がぼそりと呟く。 玉虫色の瞳。間違いなく社長のことだ。 無事だろうか。今、どこにいるのか。考えれば考えるほど、じりじりと嫌な予感と焦燥ばかりが募ってゆく。 「なあ。その人間は今、どこにいるんだ?」 思い切って尋ねてみると、異形の者たちは会話を止め、怪訝そうな視線を俺に向けた。 『おかしなこと聞ききやがるなァ。そりゃ、吟と手下が管理してるに決まってらァ。まさか抜け駆けしようってんじゃねえだろうな』 「いや、そういうつもりじゃ……」 『見ぬ顔だ。おぬし、この競りは初めてかえ?』 二メートルをゆうに超える巨体をかがめ、僧衣の巨人が俺を見下ろす。 ガパ、と開いた大きな口は耳まで裂け、びっしりと並ぶ鋭い牙がのぞいていた。 たじろぎそうになったが、必死で平然を装う。俺が人間だとバレたら一貫の終わりだ。 「ああ、そうだ。ここに来たら人間を買えると聞いた。でも、なんで人間を"競り"にかけるんだ?」 慎重に言葉を選んで答えると、猫又と巨人はどちらからともなく顔を見合わせる。 『ふむ。話せば長くなるが、一言でいうと昔の名残じゃな』 「名残?」 『この森は常世と現世の間にあり、ひとたび迷い込めば常人は出られぬ神隠しの森。古来より、豊穣を祈る人間どもが生け贄を奉げてきた。また供犠(くぎ)(※生け贄を奉げる儀式)のみならず、姥捨てや子捨て……間引きかれた人間どもも、この森に捨て置かれることが多かった』 そこで巨人は言葉を区切り、酒の入った瓢箪と盃を床に置いた。 『そうして手に入れた人間を、この森の主は分け合う。何故か自分では喰おうとせず、他の妖怪に競りで売りおる』 「森の主って……?」 すると毛づくろいをしていた猫又が顔を上げ、口を挟む。 『吟のことさ。あいつは昔、この森を統治した化け狐の一族の生き残り……齢三百を超える野狐(やこ)だ』
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