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「野狐ってキツネのことか? 千屋が?」
少し驚いたが、先ほど対峙した時から、あの男が普通の人間でないだろうとは薄々思っていた。
普通の人間が、妖怪に人間を売ることなど出来ない。
千屋が狐の妖怪なら、この不可解な一連の出来事にも説明がつく。
どうやら依頼人夫妻も俺たちも、あの男に化かされていたらしい。
『なんだお前さん、そんなことも知らずこの宿に来たのかィ?』
「…………」
猫又に聞き返され、言葉に詰まる。
この大広間に集まったのは皆、人間を買いに来た化け物たちばかりだ。うかつなことを言えば、命取りになりかねない。
どいつもこいつも酒を飲んで上機嫌に他の者たちと歓談しているが、いつ俺が人間だと気付かれ、襲われてもおかしくはない状態だ。
『しかし死体ではなく、生きた人間が競りに出るとは珍しい。何十年ぶりであろうか』
瓢箪の酒をちびちびと煽っていた僧衣の巨人が、不意に口を挟む。
「生きた人間って……いつもは死体なのか?」
『左様。まあ死体であっても、ここ百年は昔ほどは昔と比べて人間が手に入りづらくなったと吟は言うておったが』
「そりゃ珍しいな。狐ってのは死体を喰う獣だ」
まるで俺の言葉をさらうように、背後から響いた声に思わず振り返った。
低く空気を震わせる、久しぶりに聞く男の声。
この声は、確か――――
「久しぶりだな、小僧」
すらりと均整のとれた痩躯にまとう、黒一色の袴。後頭部で結い上げた長い黒髪。
どこか社長と似た、端整な顔立ち。
しかし俺より少し高い位置にある双眸は、彼女とは違って、目が覚めるように鮮やかな黄金色をしていた。
「御堂、東……」
御堂東云(とううん)。
社長の体に憑依しているはずの、御堂家の初代当主―――――
名前を呼びそうになり、周囲の妖怪たちの存在に思い至って、とっさに口を噤む。
「なんで、あんたがここにいるんだ。社長は」
呆然と尋ねる俺に、東云は小さく鼻を鳴らした。
「知るか。気付いた時には、あいつの体からはじき出された後だった」
「はじき出されたって……どういうことだよ、一体」
素っ気ない答えに、声をひそめて食い下がる。すると社長とよく似た顔に、ひどく獣じみた獰猛な笑みが浮かんだ。
「お前も東雲も、よくよく厄介な奴に目をつけられたみたいだな」
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