3729人が本棚に入れています
本棚に追加
「小僧。お前、ガキの頃の記憶がないらしいな」
東雲は歩みを止めず、前を向いたまま俺に話しかけてくる。
「なのに何故、自分を身代わりにしてまで東雲を守ろうとする?」
「それは……」
周囲を壁のように囲む妖怪たちも、上段の間からこちらを見下ろす千屋や狐面の女も、この競りに居合わせたほとんどの者たちが東云と俺の動向をじっと窺っている。
ただ一人、柱に繋がれ、虚ろな目で虚空を見上げる社長をのぞいて――――
「……あの人が、恩人だからだ」
世間から疎まれ、社会から弾き出された俺に、社長は手を差し伸べてくれた。
遁走館や日歿堂という居場所を与えてくれた。
過去に、俺や常夜村と社長の間に何があったかは分からない。
それでも彼女は常夜村の関係者に対する世間の目や、十二年前の事件を承知の上で、俺たち家族のことを信じてくれた。
上段の間にあがった俺たちを品定めするように、千屋は細く吊り上がった双眸をかすかにすがめた。
『へえ。この別嬪さんの代わりに、今度は兄さんが売り物になってくれるのかい?』
からかい交じりに問いかけてくる。それには答えず、俺はずっと気になっていた疑問をぶつけた。
「……その前に答えろ。この人に何をした。アンタはなんで彼女を狙った」
しかし千屋は人を喰ったような笑みを崩さず、俺の言葉を鼻で笑う。
『何もしちゃいないさ。人聞きの悪いことを言うね、兄さん。これはれっきとした"契約"なのにさ』
「契約? どういう意味だ」
東云が怪訝そうに口を挟んだ。
千屋は懐から折り畳まれた白い紙を取り出すと、こちらに向かって広げる。
そこに記されていたのは判読できないほど崩された筆文字で書かれた文章と、はた目にも異様な「署名」だった。
『ほら見な。これが動かぬ証拠さね』
「御堂東雲」と社長のフルネームが、やけにたどたどしく歪んだ文字で記されている。
文字の太さや大きさ、かすれ具合から、おそらく筆やペンではなく指で書かれたものだ。
何より、赤くくすんだ不吉な茶褐色は――――――――
「血文字……?」
最初のコメントを投稿しよう!