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唱えられた祝詞が、床下を這うように響き渡る。
井戸の中の気配がわずかに鳴りを潜め――――次の瞬間、それは爆ぜた。
「……っ!」
目鼻を刺すような死臭が一斉に広がる。
鉄板に隔へだられて尚、剥むきだしの敵意がひしひしと伝わってきた。全身に嫌な汗が浮かんでくる。
「ニコ、彼岸坂君。こちらに」
社長は鉄板から目を逸らさず、老秘書と俺を呼びつけた。
柱の影からところどころ体を喰い破られた蛇が、まるで井戸から逃げるように足元を這ってゆく。
(……“手負いの蛇”?)
「合図をしたら、この鉄板をどけてください。ただし、くれぐれもしめ縄を引っかけて崩さないよう、慎重に上に持ち上げてくださいね」
「はい」
「かしこまりました」
根太をまたぎ、しめ縄を踏まないよう鉄板のふちを掴む。見た目以上に分厚く、重かった。
黴、埃(ほこり)、腐臭、死臭に入り混じるかすかな血のような、鉄錆てつさびのような悪臭に、鼻の奥をじりじりと炙られる。
老秘書も同様に鉄板を持ったのを確認すると、社長は「それともう一つ」と注意事項を付け足す。
「井戸の中に何が見えても、危ないので、鉄板から手を離さないように」
ご親切に念を押されなくとも、とっくに肚(はら)はくくっていた。
何が起きようと、三日前に捨てようと思っていた命だ。今更、執着する気にもなれかった。
鉄板を掴む手に力を込める。まるで井戸に拒絶されたかのように、手のひらがずきずきと熱をもち、疼(うず)き始めた。
「では、持ち上げてください」
老秘書と顔を見合わせ、ゆっくり鉄板を持ち上げる。
沼のような湿気と、腥(なまぐさ)さをまとった冷気がたちのぼった。
鉄板をどかすと、小さな井戸が現れる。直径80センチ強ほどの古びた井筒が、モルタルで補強されていた。
そして井戸の内側には――――――――
「!」
無数の赤黒い「何か」が、びっしりと群がっている。
それらは床下にかすかに差し込む外界の光を、ぬるりと鈍く照り返した。
赤く底光りする無数の目玉のうち、いくつかと目が合う。
覚悟はしていたつもりだったが生理的嫌悪、何より数の暴力で鳥肌が立った。
動揺を腹の奥に押し込んで、鉄板を握る両手にいっそう力を込める。
鉄板を受け取り、根太や柱にぶつけないよう地面に置いた。
音を立てないように、井戸の中にいるものを刺激しないように、慎重に後ずさる。
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